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出典:斎藤拙堂/斎藤正謙(さいとうせつどう)の四字熟語一覧

四天王寺の墓

出典:wiki(四天王寺の墓)

斎藤拙堂(1797年-1865年)は、江戸後期の著名な朱子学者でした。本名は正謙、字(あざな)は有終、そして拙堂や鉄研学人といった号も持ち、通称としては徳蔵を名乗りました。伊勢国津藩士の子として江戸で生まれ、昌平黌で古賀精里の下で学びました。

彼は若いころから才気あふれる人物として知られ、24歳で藩校有造館の創設に関与しました。後に藩主藤堂高猷の侍講となり、郡奉行として地方の不正を取り締まったり、藩校の督学として学制の改革や洋学の導入、文庫の増設など、教育の発展に尽力しました。拙堂は、西洋の学問や兵術にも興味を持ち、和洋折衷の精神で新しい知識を受け入れ、藩の改革にも深く関与しました。

拙堂の学問の幅は広く、とりわけ漢文に優れており、多くの著書を遺しています。『士道要論』では武士のあり方を、『海外異伝』や『海防策』では対外政策を論じました。彼の紀行文としての『月瀬記勝』は、頼山陽の『耶馬渓図巻記』と並ぶ名作とされています。

その後、幕府から儒官への登用を打診されましたが、彼はそれを辞退。晩年は致仕し、1865年に69歳で亡くなりました。死後、1924年に正五位を追贈されています。

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