文徴明(ぶんちょうめい、1470年11月28日 – 1559年3月28日)は、中国明代中期の著名な文人・書画家です。彼は蘇州府長洲県の出身で、初名は璧、徴明は字(あざな)。後に名前のように公然と使われるようになったため、徴仲と改名しました。また、衡山や衡山居士と号することもあり、多くの場合文衡山としても知られています。
彼は南宋末期の忠臣、文天祥の子孫であり、名門の背景を持ちます。彼の父、文林は進士として知府に至りました。幼少時代、文徴明は体が弱く、言葉も遅れていたが、文林は息子の晩成を信じて教育を続けました。文徴明は、父の友人を師とし、古文は呉寛に、画は沈周に、書を李応禎に学びました。彼は科挙試験に26歳で挑戦しましたが、25年間成功せず、結局、及第することはありませんでした。
彼の青年期には、同郷の唐寅や祝允明との交友が知られ、55歳の時には、翰林院待詔に推薦されましたが、57歳で帰郷しました。帰郷後は、蘇州で文芸に没頭し、多くの文人と交流を持ちました。
彼の画は沈周の影響を受けつつも、独自の南宗画様式を確立し、明代呉派の中心人物となりました。特に、淡彩・淡墨による細やかで美しい画風が特徴です。彼と唐寅、祝允明、徐禎卿の4人は「呉中四才子」として称されました。
彼の家系には多くの文芸に秀でた者がおり、子の文彭や文嘉も書画に優れていました。彼の著作として『莆田集』があり、詩文の代表作として「西苑詩」が挙げられます。