文天祥(ぶんてんしょう、1236年6月6日 – 1283年1月9日)は、中国南宋末期の軍人・政治家。もとの名は雲孫、字は宋瑞、号は文山。吉州廬陵県富川の出身で、父は文儀、母は曾氏、妻は欧陽氏、子には文道生や文仏生がいる。
20歳の時に科挙に状元(首席)で合格し、王応麟から高い評価を受けました。当時の南宋は、強大なモンゴル軍の侵攻に直面していました。モンゴル軍が四川に侵攻した際、遷都説に反対するものの、官を免じられました。しかし、モンゴルの侵攻が激しくなると、再び復職。1276年には右丞相兼枢密使として元との和約交渉にあたりましたが、交渉の場で元の伯顔と対立し、捕らえられました。
捕らえられている間、南宋の首都臨安が陥落。文天祥は元の軍中から脱出して抵抗を続けましたが、1278年に再び捕らえられ、北京へと連行されました。獄中では、元への仕官を何度も勧誘されましたが、これを断り続けました。この期間中に、『正気の歌』という詩を詠みました。最終的に元のクビライカーンにより、1283年1月に処刑されましたが、その死の直前、南方を向いて拝んで刑を受けました。クビライは彼を「真の男子」と評価しました。
後世、文天祥は忠臣として称えられ、特に『正気の歌』は多くの人々に読み継がれました。日本でも江戸時代以降、多くの人々に愛され、藤田東湖や吉田松陰らがそれぞれ自作の『正気の歌』を詠みました。彼は南宋初期の岳飛と共に、愛国の英雄として記憶されています。