出典:wiki(月性の像)
月性は、幕末の尊皇攘夷派の僧で、山口県の地域(当時の周防国大島郡遠崎村)の妙円寺の住職でした。
彼は15歳の頃から豊前国、肥前国、安芸国で学び、さらに京都、大阪、江戸、北越を遊学して多くの名士と交流しました。
特に、長門国萩での交流が深く、幕末の英傑・吉田松陰や久坂玄瑞とも深いつながりがありました。
彼が32歳のときに開設した私塾「清狂草堂」は、多くの門人を育て、西日本の松下村塾として評価されています。
1856年には西本願寺からの招きで上京し、梁川星巌や梅田雲浜と交流し、外国の脅威を感じて、日本の防衛を強く訴える活動を続けました。
特に長州藩の方針を尊皇攘夷に向ける役割を果たし、詩にもその情熱を詠んでいます。
特に彼の詩「将東遊題壁」には、人間の生き様や志を表す「人間到る処青山有り」という有名な一節があります。
しかし、彼の活動は短命で、1858年、42歳で早逝しました。