劉禹錫(りゅう うしゃく、772年 – 842年)は、中国唐代中期の詩人・政治家。字は夢得(ぼうとく)。彼は中山靖王劉勝の子孫を自称していましたが、実際には匈奴屠各種の末裔とされています。彼の生誕地は河北省の中山、もしくは江蘇省の彭城と言われています。劉禹錫は793年に進士として合格し、後に王叔文や柳宗元らとともに政治改革を進めようとしました。しかし、805年に王叔文が失脚すると、劉禹錫も連座し、連州刺史に左遷されました。後に都へ召還されましたが、彼の詩が政府の主流派を揶揄する内容であったため、再び左遷されました。
地方に異動されていた期間中、劉禹錫は民間歌謡に接触し、農民の生活や感情を描いた詩を多く残しました。その中で「竹枝詞」や「柳枝詞」という詩は特に有名で、これらは地方で広く歌われました。また、彼は当時の因果応報や天人感応説を批判し、唯物論的な議論を展開していました。
晩年には詩人の白居易との親交が深まり、多くの詩を唱和しました。彼の詩文集としては『劉夢得文集』や『外集』が知られています。