徐陵(じょりょう、507年 – 583年)は、中国の南朝梁から陳にかけての文学者および政治家で、字は孝穆(こうぼく)。東海郡郯(たん、山東省)の出身。父は徐摛(じょち)で、梁の太子蕭綱(後の簡文帝)の文学サロンの中心人物として「宮体詩」の創始者とされています。
幼少時代から聡明さを示し、8歳で文章を綴り、12歳で『荘子』『老子』に通じるなど、非凡な才能を持っていました。梁時代、父の影響を受けて蕭綱の文学集団に加わり、庾信や庾肩吾と共に「宮体詩」の流行を築き上げました。また、蕭綱の命で詩集『玉台新詠』を編纂し、その序文は六朝時代の駢文の代表作として名高い。
政治家としても才能を発揮し、梁と陳の両朝で数々の要職を歴任。特に陳朝では、詔勅や檄文の多くを手がけるなど、政策の形成に大きく貢献しました。陳の王朝での彼の位置づけは非常に高く、「一代の文宗」として讃えられています。徐陵の文章は、単なる美文だけでなく、彼の体験した歴史の激変を反映した現実の把握の力を持つもので、庾信と並び称されることが多いです。彼の著作として『徐孝穆集』6巻が残されています。
徐陵は、南朝の文学と政治の両面でその才能を発揮し、梁から陳へと続く時代の変遷を体現する重要な人物であったと言えます。