「四字熟語」のLINEスタンプ発売中♪

四字熟語の出典・典拠一覧(解説付き)

四字熟語の典拠・出典一覧

「ま行」四字熟語の典拠・出典

「ま」四字熟語の典拠・出典
摩訶止観 摩訶僧祇律 松窓雑録
「み」四字熟語の典拠・出典
宮本武蔵 明史
「む」四字熟語の典拠・出典
無量寿経 無門関
「め」四字熟語の典拠・出典
明皇雑録補遺
「も」四字熟語の典拠・出典
蒙求 孟子 孟昶
文殊説般若経 文選

摩訶止観(まかしかん)

『摩訶止観』は、仏教の論書で、止観に関する解説が中心となっています。止とは瞑想での三昧、観とは智慧を指し、これは仏教瞑想の二大要素を構成します。この著作は、中国隋代の天台智顗が荊州の玉泉寺で行った講義を、彼の弟子である章安灌頂が筆録したもので、全10巻から成り立っています。

『摩訶止観』は、天台宗教学の中でも特に『法華三大部』として重要な位置を占めています。この中で智顗は、止観を円頓・漸次・不定の3種の方法で捉え、特に円頓止観を究極の真理の把握方法として位置づけました。さらに、この著作では全仏教の禅観を止観で体系化し、観法の対象を十境に分け、それぞれに10の観法を適用する形で、全体の修行体系が総合的に述べられています。

この書は、単なる修行方法の説明だけでなく、『法華玄義』や『法華文句』に記述された空・仮・中の三観や、蔵・通・別・円の四教を通じて、独自の宗教哲学としても構築されています。中心となる思想は、一瞬の心の中に全宇宙が存在する「一念三千説」や、地獄から仏界までの十界が相互に具現されるという考えが代表されています。


摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)

『摩訶僧祇律』(まかそうぎりつ)は、東晋代の中国で成立した仏教の律蔵の一つです。これは、教団の規律を集めたもので、全40巻からなります。この律蔵は仏駄跋陀羅と法顕によって共訳され、大衆部(摩訶僧祇部)に属しています。

原典に基づく完訳とされており、特に四波羅夷法の解釈に関しては非常に詳細に書かれています。また、この律蔵には「ジャータカ」と呼ばれる本生譚も多く含まれており、それに関する物語や教えが豊富に記されています。『摩訶僧祇律』は、十誦律、四分律、五分律とともに「四大広律」として知られています。


宮本武蔵(みやもとむさし)

宮本武蔵肖像

宮本武蔵(1584年(天正12年) – 1645年6月13日(正保2年5月19日))は、江戸時代初期の剣術家、兵法家、芸術家で、二天一流兵法の開祖です。彼は生涯六十余度の試合に出て、一度も負けたことがありません。特に、吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名です。

武蔵は非常に多才で、剣術のみならず絵画や工芸品の制作も行っていました。彼の作った水墨画には、『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』などの代表作があり、多くの美術館で収蔵されています。また、武蔵の著作『五輪書』は、剣の技法だけでなく、剣禅一如の思想を表現していることで知られます。

生年については、『五輪書』の記述を元に1584年とされることが多いですが、他の資料では1582年とも記されています。出生地に関しても、兵庫県の播磨や岡山県の美作との間で諸説あります。後半生は、小倉藩や熊本藩での活動が明らかになっています。特に、熊本での晩年には『五輪書』を執筆し、剣禅一如の境地を示す内容となっています。

宮本武蔵

彼の人生や功績は、多くの演劇、小説、映画などの作品に影響を与えています。しかし、史実と異なる創作も多く、正確な事績の把握は難しい部分もあります。


明史(みんし)

二十四史

『明史』は、中国の歴史書で、明代の歴史を網羅するものとして清代に編纂されました。正史「二十四史」の一つとして数えられ、明朝の成立から滅亡までの出来事を詳細に記述しています。

1645年(順治2年)に明史編纂のための機関として明史館が設置されました。しかし、実録の散逸やその他の史料不足から編纂業務は中断されることもありました。その後、1679年(康熙18年)に明史の編纂事業が再開され、康熙帝自らがその重要性を認識し、内容の正確性を重視するよう命じました。最終的に明史の全巻が完成したのは1735年、そして印刷されたのは1739年(乾隆4年)で、初めて明史館が設立されてから90年以上の歳月が費やされました。

本作は、本紀24巻、志75巻、表13巻、列伝220巻、目録4巻、合計336巻から成り立っており、二十四史の中で最も巻数が多いものとなっています。明史は、史料としての価値が非常に高く、当時の学者からも高い評価を受けていました。特に、康熙帝の強い意向の下で、正確性を最重視して編纂されたため、現在でもその資料的価値は非常に高く認識されています。


無量寿経(むりょうじゅきょう)

『無量寿経』(むりょうじゅきょう)は、浄土教の根本聖典として位置づけられる大乗仏教の経典です。これは、浄土三部経の一つとしても知られ、『大無量寿経』や『大経』とも呼ばれます。

サンスクリット原典の名は「スカーバティー・ビューハ」(Sukhāvatī-vyūha)で、「極楽の荘厳」という意味を持ちます。この経典は、約100年ごろの北西インドで編纂されたと考えられています。漢訳は、東晋の仏駄跋陀羅(覚賢)と南朝宋の宝雲が421年に共訳したものとされ、これ以外にもいくつかの異訳が存在しますが、中国や日本ではこの漢訳が主に用いられています。また、チベット語訳や、その他の言語の断片的な訳も存在します。

経典の内容は、過去の法蔵菩薩が救済のための四十八願を立て、長い間の修行を経て阿弥陀仏として現れたこと、そして西方の極楽浄土に住み説法していることを中心に述べられています。その極楽浄土の美しさや荘厳さも詳しく描写され、極楽への往生を願う人々の実践法が説明されています。

日本では、浄土教諸宗派の基本的な経典として受け入れられ、注釈や解説の書籍も多く存在します。全体的に、浄土教信仰を体系的に説明した経典として、浄土思想の確立に大きな役割を果たしました。


無門関(むもんかん)

無門関(むもんかん)は、中国宋代の禅書で、臨済宗の無門慧開(1183年-1260年)が編纂した。この書は、禅宗の公案や古則(仏教の故事で、禅修行の道しるべとなるもの)を48則紹介しており、各公案に対する評唱(無門の禅的な批評鑑賞)と頌(宗旨を込めた漢詩)が添えられている。これにより、それぞれの公案が一つの節(則)として形成されており、全体として48の節から成る1巻本となっている。

中国自体では特に重要視されず、伝本が途絶えたようであるが、日本には入宋した無本覚心(1207年-1298年)が直接無門慧開に参じ、帰国時に持ち帰ったとされる巻本が伝わっています。この書は江戸時代に注目され、広園寺蔵版をはじめとするいくつかの巻本が存在し、これには無門の序文や後序などの追記が含まれています。

特に、第1則の「趙州狗子」は、禅宗で最も知られた公案の一つであり、無門が月林師観から「犬に仏性はあるか」という問いを受け、答えを見つけるまでの6年間の修行の成果とされています。この公案は、無門が斎鼓の音を聞いて悟りを開いた逸話としても知られています。

総じて、無門関は《碧巌録》、《従容録》、《臨済録》と並び、禅宗で高く尊重される書籍の一つです。


明皇雑録補遺(めいこうざつろくほい)

明皇雑録補遺(めいこうざつろくほい)に収録されている「雨霖鈴曲」は、楊貴妃が亡くなった後、玄宗皇帝が斜谷の地での長雨と馬の鈴の音を背景に、愛妃を偲び思い出しながら作った楽曲の名称です。


蒙求(もうぎゅう)

『蒙求』(もうぎゅう)は、中国の唐時代に李瀚(りかん)によって編纂された児童向けの教科書です。この書名は『易経』の蒙卦の「童蒙の我に求む」から取られており、内容としては上代から南北朝時代までの有名な古人の逸話を、四字の韻文で短くまとめたものが収録されています。全文は596句から成り、特定の韻を持つ偶数句で押韻しています。

宋代には代表的な教科書として用いられ、さらに類似の書籍も作られましたが、明末期になると他の教科書に取って代わられ、徐々に忘れられていきました。

日本には平安時代に伝わり、広く学ばれるようになりました。日本の「蛍の光、窓の雪」などの故事は『蒙求』から取られたものであり、「勧学院の雀は蒙求を囀る」ということわざが生まれるほどの影響を持ちました。


孟子(もうし)

孟子

出典:wiki(孟子)

孟子は、中国戦国時代の儒学思想家で、孔子に次いで重要な人物とされています。そのため、儒教は「孔孟の教え」とも呼ばれています。

彼は性善説を主張しました。これは、人間が生まれながらにして善であるという思想です。この考えによれば、人間の本質的な性格は善であり、その善なる性が外物によって損なわれてしまうときにのみ、人は時として不善を行うようになります。

彼はまた、仁義と民本に基づく王道政治を主張しました。つまり、政治家が人々に対して公平であり、全ての人々の福祉を重視すべきだと考えていました。

一方、孟子の母が彼を育てた方法は非常に有名で、「孟母三遷」として知られています。それによれば、孟子の母は孟子が自身の環境から学ぶと考え、彼の行動を観察し、その結果として何度も家を移動したとされています。

孟子の教えや思想は、中国の文化や哲学に大きな影響を与えました。そのため、彼は今日でも重要な思想家として認識されています。


孟昶(もうちょう)

孟昶

出典:wiki

孟昶(もうちょう)は、十国後蜀の第2代(最後)の皇帝として知られ、元々の名前は仁賛です。彼は高祖孟知祥の五男として生まれました。後世の史家からは「後主」と称されています。

若い頃、孟昶は行軍司馬を務めており、明徳元年(934年)に父が皇帝として即位すると、彼は東川節度使に任命されました。即位後は、過去の不正行為を犯した旧臣を取り締まり、農業や養蚕の推進、科挙の実施などを通して国を安定させる努力をしました。政策面では、諫言を大切にし、政治の改革にも取り組んでいました。また、文化愛好者として知られ、詩才に秀でた後宮の女性、花蕊夫人などが側近にいました。

しかし、晩年には奢侈な生活を好むようになり、後宮の拡張や名宝の収集に専念するなど、国の統治をおろそかにしたため、政治が乱れました。広政18年(955年)には、後蜀の領土が後周に奪われ、広政28年(965年)には、宋の侵攻を受け、最終的に降伏。この結果、後蜀は滅びました。

後蜀滅亡後、孟昶は宋によって検校太師兼中書令・秦国公の地位を授与されましたが、乾徳3年(965年)に開封で亡くなりました。彼の死因には毒殺説も存在しており、その背後には趙光義(後の太宗)が関与しているとの噂がありました。死後、孟昶には楚王の称号と恭孝の諡が贈られました。


文選(もんぜん)

『文選』(もんぜん)は、中国の詩賦のアンソロジーで、梁の昭明太子蕭統(しょうとう)が編集した詩文選集です。この選集は、古代の周から梁までの時代、約1000年間の詩文を集め、約130人の作者の作品760編を収録しています。それらは39の文体に分類され、各文体内では作者の年代順に配列されています。

『文選』は、賦や詩を中心に選ばれ、その中でも賦56編、詩435首が収録されており、全体の6割以上を占めています。編集の際の基準として、芸術的観点からの評価が重視されました。特に、昭明太子蕭統の序文において、「事は沈思に出でて、義は翰藻(かんそう)に帰す」との方針が示され、内容ある美文が評価されています。

後世、『文選』は文学を志す者の必読書として重視され、多くの注釈が書かれました。唐の李善の注解が特に有名で、これを基に文選学という学問も形成されました。

日本においても『文選』は早くから伝わり、聖徳太子の「憲法十七条」や王朝文学、さらに平安・中世の文学にも大きな影響を与えました。いくつかの貴重な古鈔本が伝えられており、日本の歴史や文化においても重要な位置を占めています。



四字熟語の逆引き検索



error: 右クリックは無効です。