「か行」四字熟語の典拠・出典
「か」四字熟語の典拠・出典 | ||
開元天宝遺事 | 海録砕事 | 何延之 |
岳鄂王墓 | 霍小玉伝 | 学友抄 |
鶴林玉露 | 過去現在因果経 | 鶡冠子 |
賈島 | 河南程氏外書 | 河南程氏文集 |
亀谷省軒 | 関尹子 | 観経疏 |
菅家遺誡 | 還魂記 | 寒山 |
管子 | 韓詩外伝 | 漢書 |
官箴 | 顔真卿 | 韓非子 |
観仏三昧海経 | 観無量寿経 | 韓愈 |
顔氏家訓 | ||
「き」四字熟語の典拠・出典 | ||
義山雑纂 | 魏志 | 魏書 |
帰田録 | 虚堂録 | 教行信証 |
曲洧旧聞 | 滝沢馬琴 | 儀礼 |
近古史談 | 金史 | |
「く」四字熟語の典拠・出典 | ||
孔叢子 | 旧唐書 | |
「け」四字熟語の典拠・出典 | ||
経学歴史 | 荊浩 | 経国集 |
景徳伝灯録 | 芸文類聚 | 月性 |
月蝕 | 毛吹草 | 元史 |
言志録 | 原人論 | 源平盛衰記 |
「こ」四字熟語の典拠・出典 | ||
孝経 | 孔子家語 | 侯鯖録 |
亢倉子 | 高僧伝 | 公孫竜子 |
黄庭経 | 黄庭堅 | 高駢 |
孔融 | 紅楼夢 | 顧愷之 |
古楽府 | 古今集 | 国語 |
国史略 | 国朝漢学師承記 | 古今楽録 |
古今詩話 | 胡銓 | 五朝名臣言行録 |
金剛経 | 金剛般若経 | 呉越春秋 |
後漢書 | 呉象之 | 五灯会元 |
開元天宝遺事(かいげんてんぽういじ)
『開元天宝遺事』は、中国の五代十国時代の後周の文人、王仁裕が編纂した志怪小説です。内容としては、唐代の玄宗皇帝やその愛妃である楊貴妃、その他の時代の著名人物についての逸話や伝説を集めたもので、多くの神秘的で奇怪な話が含まれています。
この作品は当時の社会、特に宮廷内の風俗や行事、人々の生活様式、信仰などを詳しく描写しており、当時の社会や文化の状況を知るための貴重な資料となっています。
また、物語の中には仏教や道教の思想が織り込まれていることから、それらの宗教が当時の社会や人々の生活にどのような影響を及ぼしていたかを理解するのにも役立つ文献となっています。
しかし、『開元天宝遺事』は作品全体が伝世することなく、数篇が散見するのみで、今日では完全な形で読むことはできません。
それにもかかわらず、その断片的な内容からも当時の風俗や思想が窺い知れ、古代中国の研究において重要な参考資料となっています。
- 「開元天宝遺事」が出典の四字熟語一覧
何延之(かえんし)
何延之、名を響き渡らせた唐の詩人、彼の生涯には興味を引くエピソードが幾多存在しますが、その中でも特に鮮烈な「蘭亭記」のエピソードに触れてみましょう。
時は唐の時代、皇帝太宗が治世を続けていた626年から649年の間。太宗は、皇室に奉納される書を献じるために選ばれた四人の搨書人、馮と諸、そして趙摸と韓道政に対し、何延之の名を冠した名作「蘭亭序」の書写を命じました。
この精巧に書かれた名著は、皇太子や各王、近臣たちへと贈られました。これは、芸術に対する太宗の深い敬意と賞賛を体現する行為であり、そのエピソードは今日まで語り継がれ、人々を魅了し続けています。
以上のような経緯により、「蘭亭記」はただの詩から超越した存在となり、何延之とともに唐の芸術文化の象徴として記憶されています。
霍小玉伝(かくしょうぎょくでん)
「霍小玉伝」は、中国の唐時代に生まれた魅力的な伝奇小説で、その筆を執ったのは詩人蒋防です。この作品の魅力は、なんと言ってもその中心人物、李益の人間描写にあります。彼は中唐期にその名を馳せた詩人で、「大暦十才子」の一員として称賛されました。
この小説の力は、豊かな想像力と精緻な人物描写によって生まれています。作者の蒋防は、登場人物たちの心情を巧みに描き出し、読者を作品の世界へと引き込みます。彼の描く李益は、才子としての資質と共に、深遠な人間性をも持ち合わせています。
「霍小玉伝」は、それだけでなく、当時の中国社会を背景に、人間の感情や動機、社会の価値観や矛盾など、多角的な視点から深遠なテーマを描いています。これにより、「霍小玉伝」は単なる伝奇小説を超え、文化、社会、心理など、様々な角度から読み解くことができる、深みと広がりを持つ作品となっています。
学友抄(がくゆうしょう)
《「学友抄」から》子鳩は育ててくれた親鳩に敬意を表して、親鳥より3本下の枝に留まる。礼儀を重んずるべきであるということのたとえ。親孝行すべきことのたとえ。
鶴林玉露(かくりんぎょくろ)
『鶴林玉露』は、南宋時代の羅大経によって記された随筆集です。羅大経が鶴林(寺を指す)で行われた話や議論、彼自身の見聞きしたこと、文学評論などを童子に書き取らせ、それをまとめたものです。
本書は、羅大経が1248年から1252年にかけて編纂した全18巻からなります。題名の『鶴林玉露』は、詩人杜甫の詩「贈虞十五司馬」の句「清談玉露繁」から採られています。
内容は雑多で、詩文の評論と文人の逸話が多い一方、政治に関する話も多く、南宋の歴史資料としての価値もあります。
現存する『鶴林玉露』には18巻本と16巻本(または補遺を加えた17巻本)の2つの版があり、特に18巻本は日本に多く残っています。これらはさらに甲乙丙の3編に分けられ、それぞれが1248年、1251年、1252年にまとめられたことが記されています。
過去現在因果経(かこげんざいいんがきょう)
「過去現在因果経」は仏教の重要な経典で、4巻から成っています。劉宋時代の求那跋陀羅(ぐなばっだら)によって訳されたこの経典は、釈尊が過去世で普光如来の下で出家し、修行した結果、現在世で成道に至ったという仏の伝説を説く形式で書かれています。
この経典は、文章が流麗で、大乗仏教の思想が随所に見られるという特徴を持っています。
この「過去現在因果経」からは、経因果経と呼ばれる形式や、上部に仏伝の図像を配し、下部に経文を記すという絵巻形式の絵因果経が作られました。これらは仏教教義の視覚的表現として、広く用いられています。
鶡冠子(かつかんし)
鶡冠子は、中国戦国時代の思想家で、同名の書物『鶡冠子』の著者とされています。彼の思想は、道家・法家・兵家などが混ざり合った雑家的な内容で、黄老思想といったさまざまな要素を含んでいます。
彼の人物像については詳細が伝わっておらず、主に楚の隠者であったこと、および龐煖の師匠であったことぐらいしかわかっていません。「鶡冠子」の名前は、「鶡」という鳥の羽で作られた冠をかぶったことから来ています。
『鶡冠子』という書物は、『漢書』芸文志には道家の書として1篇が記録されていますが、『隋書』経籍志では1篇ではなく3巻とされており、現行本は3巻19篇からなるとされています。
内容は非常に多岐にわたり、黄老思想、軍事学、賞罰術、人材登用術、聖人、正名、道、法、勢、一、陰陽、宇宙生成論、天の法則性、天地人三才の類比、五行思想など、多種多様な思想が扱われています。
近年では、1970年代の馬王堆帛書の発見に伴い黄老思想が注目されるようになったことから、鶡冠子についての研究も増えています。
賈島(かとう)
賈島(779年 – 843年)は、中国唐時代の著名な詩人で、字は浪仙または閬仙とも称されました。
彼は幽州范陽県(現在の河北省保定市涿州市)の出身で、一度は進士の試験に失敗して僧となりましたが、後に洛陽に出て文を韓愈に学び、その才を認められて還俗し、再度進士となりました。
しかし、彼の詩人としての道は平坦なものではありませんでした。一度は詩を作って高官を誹謗し、その結果、出世の道を遠ざける結果となりました。
しかし、その苦悩を乗り越え、彼は詩作において深い瞑想と精緻な推敲を行い、特に五言律詩においてその名を轟かせました。
その作品の中でも、「独行潭底影、数息樹影身」の二句は3年を費やして練り上げられ、賈島自身が深く愛した作品でした。
彼の詩風は、北宋の詩人蘇軾によって「郊寒島痩」と評され、その一方で、唐代の詩人李洞のように彼を敬愛し、銅像まで造って仕えた人々もいました。
彼の詩の集大成として、「長江集」が現存しており、その深遠な思索と優れた詩才を今に伝えています。
河南程氏外書(かなんていしがいしょ)
著作は朱熹(しゅき)。
河南程氏文集(かなんていしぶんしゅう)
著作者等:宋)程顥, 程頤撰。
刊行年月:同治10 [1871]
亀谷省軒(かめたにせいけん)
亀谷省軒(かめたにせいけん、1838年 – 1913年)は、幕末から明治時代にかけての武士であり、漢学者でもありました。天保9年に生まれ、長崎県の対馬府中藩に仕えていました。
広瀬旭荘や安井息軒といった儒学者から学び、王政復古を唱えました。また、維新の際には岩倉具視に仕え、政府の中枢で活躍しました。明治6年に官職を辞してからは、著述活動に専念しました。
彼の本名は行で、字(尊称や愛称)は子省です。亀谷省軒の主な著作には「育英文範」や「省軒詩稿」などがあります。彼は大正2年1月21日に75歳で亡くなりました。彼の学識とその業績は、その後の日本の教育や学術に大きな影響を与えました。
関尹子(かんいんし)
関尹子(かんいんし)は、中国の周時代の秦(しん)の伝説的な思想家で、本名は尹喜(いんき)といいます。彼が函谷関(かんこくかん)を守る役人であったことから、「関尹子」という名がつけられました。
彼の思想は、主に「荘子」などの古代の著作に断片的に残されているのみで、彼自身の著書とされる「関尹子」は後世の偽作であると考えられています。彼の生没年は未詳で、詳しい生涯や業績は不明です。
しかし、彼が保持していたとされる思想は、後世の哲学や思想に影響を与え、彼の存在は中国哲学史において重要な位置を占めています。
観経疏(かんぎょうしょ)
『観無量寿経疏』、または『観経疏』は、中国の僧、善導によって書かれた注釈書で、仏教の経典『仏説観無量寿経』についての解釈を提供しています。
その構成は四帖からなるため、『観経四帖疏』または『四帖疏』とも呼ばれています。
この作品は、既存の浄土教の教義に新たな解釈を提供することで、その教義を一新しました。中国では広く流布しなかったものの、日本においては非常に重要な影響を与えました。
浄土宗の開祖法然はこの書に着目し、その主著『選択本願念仏集』において『観経疏』を重用し、教学の根幹としました。
また、浄土真宗の開祖である親鸞は、彼の作品『教行信証』の中で「善導、独り仏の正意を明かす」と讃え、善導の『観経疏』が仏の教えを明らかにしたと認識していました。
これらの事から、『観経疏』は日本の浄土教思想の形成に大きな影響を与えたことが認識されています。
菅家遺誡(かんけいかい)
「菅家遺誡」(かんけいかい)は、室町時代に成立したとされる教訓書で、全2巻からなります。
この書物の作者は未詳で、内容は公家が守るべき規範や行動原則を菅原道真に仮託して33条にまとめています。
この教訓は、神事、田猟、武備、刑罰、冠婚葬祭など、公家が関与するさまざまな事象について言及しており、それぞれのテーマごとに区分されています。これらの教訓は、公家の生活や倫理における指導的な役割を果たし、公家社会の規範や倫理を形成するための重要な基盤となりました。
還魂記(かんこんき)
『牡丹亭』(還魂記)は、明代の劇作家湯顕祖の代表作で、明代後期の伝奇(奇想的な話を描く文学ジャンル)の最高傑作とされています。全55幕から成る大作で、夢の中の恋愛と死者の再生をテーマに扱います。
『還魂記』は湯顕祖が書いた4つの戯曲「玉茗堂四夢」のうちの2番目の作品で、1598年に完成しました。物語は男女の恋愛の「情」を「理」と対比させ、主人公の杜麗娘が極めて強い情感によって生と死、現実と夢を超越するという展開を見せます。
劇の主人公は柳夢梅と杜麗娘で、柳夢梅が杜麗娘の棺を掘り出し、彼女が蘇生するというストーリーですが、その過程で様々な困難を経験します。
『牡丹亭』は情感をテーマとし、生と死・夢と現実が複雑に交錯し、美しい詩辞が展開されます。そのため、後世の文学作品、例えば『紅楼夢』などにも大きな影響を与えています。
寒山(かんざん)
出典:wiki(伝・顔輝筆『寒山拾得図』のうち寒山:重要文化財・東京国立博物館蔵)
寒山(かんざん)は、中国唐代の伝説的な僧侶で、台州の天台山の国清寺にいたとされています。生没年や詳細な経歴は不詳で、唐代初期から中期にかけての人物と考えられています。彼の名前は、始豊県西方の寒巌(翠屏山)を居所としていたことから来ています。
寒山は『寒山子詩』の作者として知られ、その詩は竹や木や壁に書かれ、その大部分は仏教的な勧俗的な内容を含んでいます。また、寒山はしばしば画題となり、特に禅宗の画題として彼と拾得(しゅうとく)の絵が描かれます。寒山と拾得は、食事を共有し、しばしば一緒に笑いながら行動する二人組として描かれ、その風変わりな姿や行動から風狂僧(独自の道を行く僧)とも称されます。
寒山と拾得の逸話として知られるものの一つに、台州刺史の閭丘胤が国清寺を訪れた際、二人が大笑いしながら山に姿を隠し、二度と姿を見せなかったという話があります。その後、山中に書かれた詩が300篇余り発見され、それが寒山の作とされ『寒山子詩』と呼ばれています。
なお、現代のアーティスト、横尾忠則は寒山と拾得をモチーフにした作品を制作しています。
管子(かんし)
『管子』は、古代中国の書物で、管仲という人物が著者であるとされています。ただし、文体や思想が異なる篇が多く含まれており、実際には管仲以外の著者が関与した可能性が高いと考えられています。そのため、『管子』は多くの異なる思想や学派を包含した雑家の書物とも言えます。
この書物は、道家の思想や法家の思想を含むとともに、さまざまな主題にわたる教訓や議論を提供します。特に有名な言葉として、「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」があります。
『管子』の分類は学者によって異なります。『漢書』では「道家」に、『隋書』や『四庫全書総目提要』では「法家」に分類されていますが、この分類に対する疑問も提起されています。
その成立は戦国時代から漢代にかけて徐々に完成されたと考えられており、その内容の豊富さと多様性が『管子』の特徴となっています。
韓詩外伝(かんしがいでん)
『韓詩外伝』は、前漢の韓嬰によって著された書物で、一般的な事柄やさまざまな故事を述べ、それらと関連する『詩経』の文句を引用して説明する内容であるため、説話集に近いものと言えます。
韓嬰は文帝と景帝の下で役職につき、『詩経』の解釈に貢献しました。その彼の説明は非常に明晰で、他の学者である董仲舒が反論することができなかったとされています。
この書物は、前漢時代の『詩経』の学問における三つの主要な解釈、いわゆる三家詩(斉詩、魯詩、韓詩)の一部で、現存する唯一の書物となっています。これら三家詩は古文とは異なり、今文に属しています。
現行の『韓詩外伝』は10巻からなり、多くの故事や説話を含んでいます。『詩経』だけでなく、『易経』『書経』『論語』『老子』などからも引用しています。その内容の一部は他の書物、特に『荀子』から取られたものもあります。
この書物は、古代中国の文学と思想の理解にとって貴重な資料となっています。
漢書(かんじょ)
出典:wiki(漢書:宋刻本)
『漢書』は、中国の後漢時代の章帝の時に班固とその妹の班昭らによって編纂された歴史書で、前漢の歴史について記述しています。二十四史の一つであり、全100巻から成る紀伝体の書物で、「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻が含まれます。
出典:wiki(二十四史)
『漢書』は、中国で初めて特定の王朝、つまり漢王朝に焦点を当てて書かれた歴史書(断代史)として知られています。これは後の正史編纂の規範となりました。
この書物は『史記』と共に、二十四史の中の最も重要な二つの歴史書とされ、その詳細さと精度から、元号の出典に多く用いられました。『史記』と同じ時期の歴史を多く記述しているため、『史記』と比較されることが多いです。『漢書』はあくまで歴史の記録に重点を置き、そのため物語的な面白さに欠けるかもしれませんが、その代わり詔や上奏文を直接引用しており、その正確さでは『史記』を上回っています。
また、思想的には儒教の視点で統一されており、道徳的な教訓を重視しています。しかし、これが硬直化した形となって現れているとも評されています。
『漢書』の制作は、班彪が司馬遷の『史記』の続編として始め、その子の班固が『史記』と未完の『後伝』を整理補充しました。その後、一部が未完のままであったため、班固の妹の班昭と馬続によって完成されました。
官箴(かんしん)
『官箴』(かんしん)は、中国・宋時代の呂本中によって編纂された書物です。箴とは戒めや教訓を意味しますので、『官箴』は文字通り「官吏の教訓」を意味します。
1巻からなるこの書物では、官吏が心得るべき33の鑑戒があげられています。これらは公務における行動規範や、公正で道徳的な振る舞い、または官僚制度の適切な管理や職務の遂行方法に関する指針となっています。
また、「官箴」は、地方行政にあたる官吏が心得るべき事項を記した書物一般を指すこともあります。これらの文書は、特定の地方官吏がその職務を遂行する際に遵守すべき規則や指導原則を示すために作られました。これらは、道徳的な行動、公正な判断、そして責任ある行政を推進するための重要なガイドラインとなりました。
顔真卿(がんしんけい)
顔真卿(709年 – 785年)は、中国唐代の政治家であり、書家でもあります。彼は中国史上の屈指の忠臣として評価されていますが、同時に優れた学者・芸術家としても認識されています。
彼の一族は書芸術に秀でており、多くの学者を輩出した名家でした。彼自身もこの伝統を受け継ぎ、その家系の特性を持ち合わせていたと言われています。
顔真卿は26歳で進士に及第し、その後、吏部主催の任用試験に合格して秘書省の校書郎に任命されました。その後、34歳で文詞秀逸科の試験に合格し、県尉(県長)となりました。
彼はその後、監察御史に昇進し、地方の査察を行う任務を担当しました。しかし、権臣の楊国忠との対立が深まり、一時は平原郡太守に左遷されるなど、彼の政治生涯は困難を伴うものでした。
それでも彼は書芸術に優れた人物であり続け、その業績は今日まで評価されています。
韓非子(かんぴし)
『韓非子』は、中国戦国時代の法家、韓非が著した思想書です。この本は、その時代の思想と社会を詳細に分析したもので、権力の扱い方とその保持について韓非が語っています。
韓非は性悪説を主張した儒家の荀子の弟子で、人間の行動を礼や道徳ではなく、法によって制御すべきだと主張しました。彼の思想は、その時代の政治状況、すなわち、各国が存亡を賭けて戦う戦国時代に生まれました。
この時代には、権力が君主から士大夫や他の政治家に委ねられることが多く、権力が分散してしまうことがありました。韓非は、君主の権力を一元化し、法によって体系化することが国家を強くすると考えました。
韓非の思想は、彼の出身国である韓よりもむしろ、敵対する秦で高く評価され、特に秦の始皇帝に影響を与えました。この思想は、商鞅による法家思想の確立に影響を与え、秦の統一と繁栄を支える一因となりました。
観仏三昧海経(かんぶつざんまいかいきょう)
『観仏三昧海経』(かんぶつざんまいかいきょう)は、10巻からなる経典で、主に仏教の観想実践に関する教えが語られています。サンスクリット語やチベット語の原文は現存せず、現在残っているのは仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)による漢訳版のみです。
この経典では、釈迦の物理的な存在(色身)の観想や、大いなる慈悲に満ちた仏の心を持つこと、釈迦の人生のさまざまな場面についての瞑想、仏像の観察、さらには過去七仏や十方の仏への念仏などが説かれています。
これらの観想実践を通じて、『観仏三昧海経』は、観仏三昧(仏を観る禅定)を達成し、釈迦や他の仏と直接的に交わる「見仏」の経験を実現しようとする教えを展開します。
また、この経典の背後には『般若経』や『華厳経』の思想、唯心の思想や如来蔵思想が見て取れます。これらの思想は、経験の主観性や仏性の普遍性など、仏教の重要な教義を形成しています。
『観経』との類似性については、観仏(仏を観想する実践)の教義についての共通点が指摘されています。これらの経典は、仏教徒が仏と直接的な結びつきを持つための観想的な実践に重点を置いています。
観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)
出典:wiki(現存最古の活字印刷物である『仏説観無量寿経』残頁。)
『観無量寿経』は大乗仏教の経典であり、特に浄土宗や浄土真宗で重視されています。その名の通り、この経典は仏陀の弟子である阿難と舎利弗に対して、無量寿仏(阿弥陀仏)とその浄土(西方浄土、すなわち極楽浄土)について説く様子を描いています。
この経典の主な内容は、阿弥陀仏の浄土の描写、その浄土へ生まれる方法、およびそこで得られる利益などが述べられています。特に重要なのは、誰でも阿弥陀仏の名を称え(念仏)、その浄土に生まれる願いを持てば、誰でも西方浄土に生まれ変わることができるという教えです。
これにより、学問的な知識や修行の結果ではなく、仏への信仰と願いによって救済が可能とされています。したがって、これは仏教の普遍的な救済を体現していると言えます。
また、この経典の起源については、そのサンスクリット原典やチベット語訳が発見されていないため、中央アジアで編纂されたか、あるいは中国で作成されたのかという論争があります。
なお、観無量寿経は「観経」とも略称され、観経法門と呼ばれる瞑想法の根本経典ともされています。これは阿弥陀仏と極楽浄土を観想(心に描く)することで、心を浄化し、浄土に生まれ変わることを目指すものです。
韓愈(かんゆ)
韓愈(かんゆ、768年 – 824年)は、中国の唐代中期を代表する文人・士大夫で、字(つまり、中国の名前の一部で、通常は本名と共に使われるもの)は退之(たいし)。孟州河陽県(現在の河南省)出身で、本貫(家系の起源とされる地域)は南陽郡とされています。
韓愈は、古文辞派(古典的な形式と語彙を重視する文学の一派)の創始者の一人として知られています。この古文辞派は、当時の文壇において流行していた駢文(へんぶん、組み合わせて複雑な意味を表現する文章スタイル)を批判し、古典的な文章形式を採用することを主張しました。
顔氏家訓(がんしかくん)
『顔氏家訓』は、中国北斉時代の顔之推によって書かれた道徳的指導書です。彼の人生経験や事例を通じて、家族の道徳、教養、学問、思想、信仰、生活態度、言葉の使い方、社交術、そして処世術など、さまざまなテーマについての指導を提供しています。
顔之推は、めまぐるしく変化する自身の境遇を基に、質実剛健な家庭生活と調和を重視し、時代の流れに影響されない生活態度を理想としています。そのため、この作品は、中国の人々が持つ生活態度の伝統を象徴するものとして、長い間尊重され続け、”家訓”といえばこの書を指すほどの影響力を持っています。
義山雑纂(ぎざんざっさん)
晩唐詩人、李商隠著者の中国書物。
魏志(ぎし)
中国の歴史書「三国志」のうち、魏の国に関する史実を記した部分の通称。30巻。「蜀志しょくし」「呉志」とともに、晋の陳寿の著。魏書。
魏書(ぎしょ)
出典:wiki(二十四史)
『魏書』は中国北斉の歴史家、魏収によって編纂された北魏の正史で、二十四史の一部を成す重要な史書です。本書は本紀14巻、列伝96巻、志20巻の合計130巻で構成され、北魏の歴史を詳細に語っています。
特筆すべき点として、北魏創建以前の拓跋部の記事が本紀冒頭に記載されていることや、北斉により編纂されたために東魏・北斉を正統として扱っていることが挙げられます。また、西魏や南朝の正統性は認められず、北斉の視点からの歴史として記述されています。
しかし、『魏書』はその公正性に疑問を投げかけられることも多く、特に敵国に対する否定的な記述が目立つとして「穢史」(汚れた歴史)とも評されています。それでもなお、北魏の歴史を詳細に記述した貴重な文献として、歴史研究の重要な資料となっています。
帰田録(きでんろく)
【佚事小説】より
…その自序にいうように〈事実を紀し物理を探り疑惑を弁じ勧戒を示し風俗を採り談笑を助くるは則ち之を書す〉という態度で記録されたもの。
虚堂録(きどうろく)
教行信証(きょうぎょうしんしょう)
『顕浄土真実教行証文類』、通常『教行信証』と呼ばれるこの文献は、鎌倉時代の日本の僧、親鸞が著した浄土真宗の根本聖典です。この6巻からなる作品は、親鸞の教義を説明し、浄土真宗の教えを立証しています。
『教行信証』の完成は、浄土真宗にとって立教開宗(教義の創設)とされており、その完成日(1224年4月15日)は「真宗立教開宗記念日」として祝われています。
文献自体は親鸞が生涯をかけて書き上げ、多くの加筆や修正がなされています。現存する唯一の親鸞の真跡本は、真宗大谷派が所蔵し、『坂東本』とも呼ばれています。この貴重な文献は、2003年から2004年にかけて修復され、その過程で新たな書き込みが発見されました。現在は京都国立博物館に寄託されています。
簡単に言えば、『教行信証』は親鸞の教義を詳細に説明し、浄土真宗の教えの基礎となる文献です。それは浄土真宗の創設と直接結びついており、その宗派の信者にとって非常に重要な聖典です。
曲洧旧聞(きょくいきゅうぶん)
著作者 朱弁(1085年—1144年)
滝沢馬琴(きょくていばきん)
滝沢馬琴(本名:滝沢 興邦、後に解(とく)に改名)、またはその筆名である曲亭馬琴は、江戸時代後期の著述家であり、読本作家として知られています。1767年生まれ、1848年没。彼の代表作には『椿説弓張月』や『南総里見八犬伝』などがあります。
彼は日本で最初に原稿料のみで生計を立てた著述家として知られています。幼いころから絵草紙などの文芸に親しみ、7歳で発句を詠んだとされています。
彼の名前、「曲亭馬琴」は戯作に用いる戯号で、彼自身は、「曲亭」は『漢書』陳湯伝に、「馬琴」は『十訓抄』に収録された小野篁の「索婦詞」の一節から取ったと説明しています。
また、「滝沢馬琴」は明治以降に流布した名前であり、彼の本名と筆名を合わせたものです。この表記は一部の教科書や副読本で使われていますが、本名と筆名をつなぎあわせた誤った呼び方であると近世文学研究者から指摘されています。
儀礼(ぎらい)
『儀礼』は儒教の経書であり、社会的な礼儀や儀式、風習について説明しています。これは十三経の一つであり、『礼記』『周礼』とともに三礼の一つです。
この経書は主に士(社会の中堅階級)に関する礼を中心に記述していますが、一部では大夫(貴族階級)の礼や諸侯(地方領主)の礼も含まれています。
また、『儀礼』は古代中国の風俗や社会慣習を知るための重要な情報源となっています。晋代(紀元前3世紀から5世紀)からこの名前で呼ばれるようになりました。
なお、日本語版は池田末利訳註『儀禮』として東海大学出版会から全5巻で出版されています。
近古史談(きんこしだん)
『近古史談』は、江戸時代後期に書かれた歴史書です。大槻磐渓によって著され、安政元年(1854年)に成立し、元治元年(1864年)に出版されました。
この本は、四巻からなり、130の逸話を集めています。それらの逸話は、「常山紀談」、「武辺雑談」、「武将感状記」、「太閤素生記」などの書物から引用されたもので、それぞれの逸話が英勇な主君、名将、忠臣に関するものです。
それぞれの逸話は、元の文献からの引用部分の後に、大槻磐渓自身の短評が加えられています。この短評は、逸話の内容を解説し、またその歴史的な意義や価値を明らかにするものです。
なお、それぞれの逸話は元の日本語から漢訳(古典的な中国語)に翻訳されています。このことが、当時の学者や読者にとっては、それぞれの逸話の理解を助ける役割を果たしていたと考えられます。
金史(きんし)
出典:wiki(二十四史)
『金史』は、元朝のトクト(脱脱)らが編纂した金朝(1115年~1234年)の歴史書で、本紀、志、表、列伝の4つの部分から構成されている135巻の巻物です。金朝は女真族(現在のマンチュ族)によって建てられた王朝で、この書物は女真族の興隆から金朝の創設と滅亡までの歴史を記述しています。
『金史』の編纂は、元朝のクビライの統治時代の1261年に始まり、元朝のトゴン・テムルの命令により、1343年には遼朝・金朝・宋朝の三史の編纂が始まり、1345年に完成しました。
『金史』は、多くの史書や記録を参照して成立しており、その中には皇帝の実録や元好問の『王辰雑編』、劉祁の『帰潜志』などの資料が含まれています。また、比較的均質な実録が存在し、信頼できる資料による増訂が行われ、元初から何度も編纂が重ねられた結果、比較的整理された歴史書となりました。
ただし、『金史』にも一部の誤りや矛盾、過度の省略、年次の逆転、人物名の混乱などが存在しています。これらの問題点を修正したのが清の施国祁による『金史詳校』で、これにより『金史』の4000条以上が校勘・補正され、学界に対して便益をもたらしました。
元朝の至正年間に初めて印刷出版されて以来、いくつかの版本が存在しますが、近代以降は1935年に商務印書館の百衲本が権威とされ、その後1975年に中華書局から新式校点を施した『金史』が出版され、これが一般に利用されるようになりました。
孔叢子(くぞうし)
『孔叢子』は古代中国の儒家の文献で、秦漢から魏晋時代にかけて成立したとされています。この書物は23篇から成り立ち、その内容は3つの部分に大別されます。
- 第1~10篇と第12~21篇: 孔子とその子孫たちの政策や処世の智慧を伝える部分で、これが『孔叢子』の主体となります。
- 第11篇: 『小爾雅』篇と呼ばれる部分で、これは別の書物である『爾雅』の内容を詳述しています。
- 第22・23篇: 『連叢子』上下篇と呼ばれ、『孔叢子』の付録部分となっています。この部分は主に前後漢代の孔氏一族の動向を伝えています。
『孔叢子』の中で扱われる思想は多岐にわたりますが、「明徳慎罰」や「尚質」の説、漢代の経学を背景とした「三統改制」説などが主に取り上げられます。
なお、『孔叢子』の成立や作者については諸説あり、具体的なことははっきりしていません。ただし、注釈書として北宋の宋咸の『孔叢子注』、清の姜兆錫の『孔叢子正義』、江戸時代の冢田大峯の『冢註孔叢子』などが存在しています。
旧唐書(くとうじょ)
出典:wiki(二十四史)
『旧唐書』は、中国の五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫、張昭遠、賈緯、趙瑩らによって編纂された唐代(618年 – 907年)に関する歴史書で、二十四史の一つです。945年に完成され、その当時は単に『唐書』と呼ばれていましたが、後に『新唐書』が編纂されたため、現在では『旧唐書』と呼ばれています。
『旧唐書』は編纂の過程でいくつかの問題を抱えており、例えば編纂責任者が途中で変わったり、唐代初期の情報が多く、後期の情報が少ないなどの偏りがありました。これらの問題から後世の評価はあまり高くありませんでしたが、その一方で、生の資料を直接書き写している部分があるため、資料としての価値は『新唐書』よりも高いとされています。
また、『旧唐書』には「倭国伝」や「日本国伝」など、日本に関する記述も含まれており、その中では日本の地理や文化、政治状況などが詳細に描かれています。これらの情報は、日本の歴史や文化を理解する上で重要な参考資料となっています。
経学歴史(けいがくれきし)
『経学歴史』は、1907年に清代の学者皮錫瑞が著した書籍で、春秋時代から清朝までの経学(経典学問)の歴史を記述しています。
この書の特徴は、経典の注釈や異なる学説に対して賛否の評価をし、その理由を明確に示している点です。
皮錫瑞は、古代の注釈書を重要視し、特に今文学の立場から経学史を論じています。しかし、彼は他の学説を公平に評価する姿勢も持っていました。
彼のこの著作は、経学の知識を後世に伝え、経学の衰退を防ぐためのものとしても位置づけられています。
また、『経学通論』という書籍は、『経学歴史』の姉妹書として位置づけられ、経学上の重要な問題について議論を整理しています。
荊浩(けいこう)
出典:wiki(匡廬図)
荊浩は唐末から五代後梁にかけての中国の山水画家で、華北山水の始祖とされています。
彼は、太行山中の洪谷山に隠れて暮らしていたと言われ、唐代の画家・呉道玄の筆線と江南の項容の水墨の技法を統合し、華北山水画の発展の礎を築きました。
荊 浩は『筆法記』という画論も残しています。代表作としては「匡廬図」があり、その描写は輪郭や細部に焦点を当てており、独特の線のパターンによって山に立体感を出しています。
後代の華北の画家、范寛などにも影響を与えました。
経国集(けいこくしゅう)
経国集は平安時代初期に編纂された重要な勅撰漢詩集で、827年に淳和天皇の命令で作成されました。この詩集は、全20巻からなる大規模なものでしたが、現在はそのうちの6巻のみが残っています。
編纂の主要な担当者は、良岑安世や菅原清公などの当時の詩人や学者でした。この詩集には、176人の作者たちの作品が収録されています。その中には、淳和天皇や石上宅嗣、淡海三船、そして著名な僧侶・学者である空海の詩も含まれています。
経国集は特別な存在で、それ以前の勅撰漢詩集に収録されなかった詩を補足する目的で編纂されました。また、ただの詩だけでなく、賦や序、対策といった異なる形式の漢文も収められている点が特徴的です。
簡単に言えば、経国集は平安時代の文化や文学の状況を反映する、多様な内容と形式を持った詩文集であり、当時の人々の思想や感性、価値観を知るための貴重な資料となっています。
景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)
『景徳伝灯録』は、中国の北宋時代に道原が編纂した、禅宗の主要な歴史文献です。内容は、過去七仏から天台徳韶門下までの禅僧や僧侶の伝記を集めたもので、多数の禅僧の伝記が含まれているため、「1,700人の公案」と称されることがありますが、実際の伝記は965人分です。
この文献は、1004年に道原が朝廷に提出しました。その後、楊億らの校正を経て、1011年に公式に認められ、広く流布するようになりました。その名前は、提出された年の元号「景徳」から取られています。この文献の公刊を契機に、中国禅宗では歴史文献の編纂が盛んになり、これが後に公案の形式に発展しました。
『景徳伝灯録』は、禅宗研究の際の基本的な参照資料として、現在も非常に重視されています。ただし、内容の中には史実とは異なる部分もあるとされています。
また、撰者については興味深い逸話が存在しており、一説には、本来は拱辰がこの文献を編集していたが、途中で道原に持ち去られ、彼の名で提出されたという話があります。しかし、この話は後の仏教学者によって否定されています。
芸文類聚(げいもんるいじゅう)
『芸文類聚』は、中国の唐代初期に成立した文学的な類書で、欧陽詢らが624年に高祖の命令を受けて編纂しました。
この書は、隋代の『北堂書鈔』や唐代の『初学記』、『白氏六帖』とともに、「四大類書」として特に重要視されています。
この類書は、唐代以前のさまざまな詩文や歌賦などの文学作品を収録しており、多くの今は失われた文献や典拠からの引用も含まれています。
全体は46部に分かれており、その中に子目として727の項目が細分されています。各項目では、その背景や由来となる故事を先に述べ、詳しい出典や時代背景を注記しています。
特に『芸文類聚』の大きな特色は、事実や背景と詩文を同じ項目に併記している点で、これにより他の類書とは異なる独自の体制を持っています。
月性(げっしょう)
出典:wiki(月性の像)
月性は、幕末の尊皇攘夷派の僧で、山口県の地域(当時の周防国大島郡遠崎村)の妙円寺の住職でした。
彼は15歳の頃から豊前国、肥前国、安芸国で学び、さらに京都、大阪、江戸、北越を遊学して多くの名士と交流しました。
特に、長門国萩での交流が深く、幕末の英傑・吉田松陰や久坂玄瑞とも深いつながりがありました。
彼が32歳のときに開設した私塾「清狂草堂」は、多くの門人を育て、西日本の松下村塾として評価されています。
1856年には西本願寺からの招きで上京し、梁川星巌や梅田雲浜と交流し、外国の脅威を感じて、日本の防衛を強く訴える活動を続けました。
特に長州藩の方針を尊皇攘夷に向ける役割を果たし、詩にもその情熱を詠んでいます。
特に彼の詩「将東遊題壁」には、人間の生き様や志を表す「人間到る処青山有り」という有名な一節があります。
しかし、彼の活動は短命で、1858年、42歳で早逝しました。
月蝕(げっしょく)
出典:wiki(盧仝)
盧仝(835年没)は、唐代中期の著名な詩人として知られ、范陽(現在の北京)の出身です。
彼は出世を追わず、若き日から河南省の少室山で隠棲し、学問に専念しました。
一時、諫議大夫の地位を拝命されるものの、彼はこれを辞退しました。彼の詩『月蝕詩』は、810年11月の月蝕を背景に、当時の皇帝や宦官らの権力闘争を鋭く風刺。
また、友人孟諫議からの贈り物であるお茶に対する感謝を詠んだ『走筆謝孟諫議寄新茶』は、一碗から七碗までのお茶を飲む表現が特に名高い。
この詩の終盤では、高位の者たちが庶民の困難を理解できないことを辛辣に風刺しています。
毛吹草(けふきぐさ)
『毛吹草』は、江戸時代の俳諧論書で、松江重頼が編纂し、1645年に刊行されました。
この作品は、野々口立圃の『はなひ草』に対抗して作成された作法書であり、貞門派の俳諧論の中心的な文献として知られています。
内容は非常に網羅的で、初巻には連歌と俳諧の差別や句の作り方に関する項目が、次の巻には季節や恋の詞、俚諺、付合語、そして各国の名物などが詳しく記されています。
特に、春夏秋冬に関する発句や四季・恋・雑の付句が収録されています。
この書は、一部の人々からは批判を受けましたが、俳諧の指南書や百科事典として大変な評価を受けました。
また、『毛吹草』は「鬼に金棒」という有名なことわざの初出としても知られています。
元史(げんし)
出典:wiki(二十四史)
『元史』は、モンゴル帝国(元)に関する公式の歴史書で、清代における「二十四史」の一つとされています。
この書は宋濂・高啓らによって編纂され、1206年のチンギス・カンによるモンゴル帝国の建国から、1367年の順帝トゴン・テムルが大都を放棄するまでの時代を記録しています。
この書の編纂は、1369年に明の洪武帝が指示して開始され、翌年には一度完了しましたが、誤りや不足が指摘されたため再編が行われました。
しかし、編纂の過程が極端に急かされた結果、『元史』には多くの誤りや重複、脱漏が含まれていると早くから指摘され、完成度が低いとの評価が定着しています。
そのため、後の歴史家たちはこの書の改訂を試み、最終的に20世紀に『新元史』が編纂されました。
洪武帝が編纂を急いだ背景には、漢族の王朝を再興したとの自らの正当性を強調し、元という外来の王朝を速やかに過去のものとする意図があったと考えられます。
言志録(げんしろく)
『言志四録』は佐藤一斎によって後半生の四十余年で執筆された語録の総称です。
これは4つの書籍、すなわち『言志録』、『言志後録』、『言志晩録』、『言志耋(てつ)録』から構成されており、合計で1133条の内容が含まれています。
各録は佐藤一斎の異なる年代に書かれており、42歳から82歳までの期間をカバーしています。
内容としては、四書五経や易経からの引用が多く見られ、処世学としての知識や精神修養の方法に関するアドバイスが詰まっています。
そのため、『言志四録』は指導者のための重要な参考文献とされ、現代に至るまで読み継がれてきました。
原人論(げんにんろん)
中国,唐の僧圭峰宗密 (しゅうみつ) の著。ただしくは『華厳原人論』という。1巻。韓愈の原人の説に対し,華厳宗の宗旨によって,人間の起源を考究し,仏教が儒教や道教などよりもすぐれているゆえんを説明している。
源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)
『源平盛衰記』は、軍記物語『平家物語』の一つの異本として知られる作品で、著者は不明です。
内容としては、二条院の応保年間から安徳天皇の寿永年間、つまり1161年から1183年までの約20年間にわたる源氏と平家の盛衰を詳細に描写しています。
この作品は『平家物語』を基にして増補や改修が施され、特に源氏側の視点からの加筆や主要なストーリーから外れるエピソードが数多く含まれています。
それゆえに、文学的には『平家物語』に及ばないと言われることが多いですが、読み物としての説話の豊富さから、後の文芸への影響は大きいとされます。
現在、入手は難しいものの、過去には新人物往来社や三弥井書店、勉誠出版からさまざまな版が発行されています。
孝経(こうきょう)
『孝経』は、中国の経書の中でも特に「孝」に関して詳しく取り上げられている書物です。以下に、その主要なポイントをわかりやすくまとめてみます。
- 起源と形式: 『孝経』は、孔子の弟子である曽子の門人が、孔子の言動を記録したものと言われています。書の形式は、孔子と曽子が「孝」というテーマについての問答として描かれています。
- 内容: この経書は「孝」の意義や本質、さらには異なる階層の人々(天子、諸侯、郷大夫、士、庶人)がどのように「孝」を実践すべきかについて詳細に説明されています。さらに、孝の重要性やそれがどのように社会や個人の行動に影響を及ぼすかについても述べられています。
- 詩経の引用: 各章の終わりには『詩経』からの文句が引用されていますが、一部の解釈ではこれらの引用は後世の追加であるとされています。
- 孝の位置づけ: 『孝経』では、「孝」は徳の根本であり、最も高い徳、「至徳」と位置づけられています。この孝の原理は、天子の統治から一般の庶民の行動まで、あらゆる階層の人々に影響を及ぼすとされています。
- 歴史的背景: 『孝経』は漢代に入るとさまざまな記録に登場します。例えば、前漢の宣帝は即位前に『孝経』を学び、平帝の時代には各学校に孝経の教師を置くよう命令が出されました。後漢では、『孝経』をもとにした多くの関連書が書かれ、『孝経』の重要性がさらに高まりました。
要するに、『孝経』は「孝」を中心に据え、その重要性と具体的な実践方法について詳しく説く古典的な経書です。そして、中国の歴史の中で、その価値や重要性が幾度も再認識されてきました。
孔子家語(こうしけご)
『孔子家語』は、孔子と彼の弟子たちの説話や教えを収録した古典書籍で、『論語』には掲載されていないエピソードが多く含まれています。
この書物の初期の記録は、『漢書』芸文志論語部に27巻の記述として言及されていますが、この27巻版はすぐに失われたと考えられています。
現在伝わる版は、魏の時代の学者王粛が再発見し、注釈を加えた44篇から成るものです。『孔子家語』には、前漢の孔安国が原著を編纂し、孫の孔衍が後序を追加したとの記載があります。
しかしながら、南宋時代から始まった研究によって、王粛が礼制の議論における競争相手、鄭玄派を論破するためにこの書物を偽作したのではないかという疑念が生じました。
しかし、『孔子家語』の内容の多くは『春秋左氏伝』や『礼記』、『説苑』、『史記』などの古典文献と一致するため、王粛が全てを偽作したわけではなく、散逸した文献からの引用もあると考えられます。
1970年代に出土した定州の漢墓からの竹簡『儒家者言』や双古堆の漢簡木牘には、『孔子家語』の内容と一致する部分が見られ、王粛が完全に偽作したという主張に疑問が投げかけられました。この発見により、『孔子家語』の真実性に対する新たな視点がもたらされています。
侯鯖録(こうせいろく)
『侯鯖録』(こうせいろく)は、宋の時代の学者、趙徳麟(ちょうとくりん)によって編纂された八巻からなる書物です。この書は、さまざまな故事や詩話などの雑記を収録しており、中国古典の知識や文学、そして当時の社会や文化を理解する上で非常に有用な情報源となっています。
趙徳麟自体が詩や散文の分野で優れた才能を持つ人物であったため、『侯鯖録』は文学的にも高い評価を受けています。
彼の独自の視点と解釈を通じて、過去の文学や歴史に関するさまざまなエピソードや背景を知ることができ、中国文学や歴史の研究者にとっては貴重な参考資料として利用されています。
亢倉子(こうそうし)
高僧伝(こうそうでん)
『高僧伝』は、中国梁の慧皎が編纂した仏教の高僧の伝記を集めた書籍です。全14巻からなり、519年に完成されました。固有名詞としての『高僧伝』は、中国で仏教が伝来してから梁代までの高僧の伝記を収録しており、このため「梁高僧伝」とも呼ばれます。
慧皎の時代以前にも、梁の宝唱などによって「名僧伝」のような僧の伝記が編纂されていましたが、慧皎はこれらの編集方針に満足しなかった。彼の視点では、仏教の教えを考えると、有名であることと真に優れた僧であることは必ずしも一致しない。そのため、無名でも優れた僧、すなわち「高僧」が存在するはずだと考えました。この考えに基づいて、慧皎は『高僧伝』を編纂し、その名の通り、仏教の観点から見て優れたと判断される僧の伝記を収録しました。
具体的には、『高僧伝』には後漢の67年から梁の519年までの453年間にわたる、257名の高僧と、それに付随する243名の伝記が収められています。
公孫竜子(こうそんりゅうし)
『公孫龍子(公孫竜子)』は、古代中国の戦国時代に書かれた文献で、諸子百家の一つ、名家の公孫龍の思想や議論を伝える書物として知られています。特に「白馬非馬論」という論考が有名で、これは言葉や概念に関する哲学的な議論を展開しています。
本書には、元々14篇が収録されていたとされるが、南宋時代の文献『直斎書録解題』では6篇になっており、現存する版もこの6篇から構成されています。この中には公孫龍本人の手によるものと、彼の門弟や後学の思想を伝える部分が含まれるとされます。
また、『隋書』には『公孫龍子』の記録はないものの、『守白論』という書物が道家の部類に記載されています。この『守白論』については、『荘子』や『公孫龍子』の中にも同様の言葉や議論が見られるため、『公孫龍子』と関連があるとも推測されています。
簡単に言えば、『公孫龍子』は戦国時代の哲学的議論や思想を伝える重要な書物であり、公孫龍やその後継者たちの考えを知る上で貴重な資料となっています。
黄庭経(こうていぎょう)
『黄庭経』は、道教の経典の一つとして知られる重要な文献です。この経典には、実際には四つの異なるテキストが含まれています。
それらは、魏夫人が伝えたとされる「黄庭内景経」、王羲之が写し、その後、鵝と交換したと言われる「黄庭外景経」、さらに「黄庭遁甲縁身経」、そして「黄庭玉軸経」といった部分から成り立っています。
特に、王羲之が手掛けたとされる「黄庭外景経」は、その筆跡が非常に価値があるとされ、書道の世界で大変重要な手本として扱われています。
この筆跡は、楷書で書かれ、一文字の大きさが約一センチメートル四方という非常に規則的なものとなっており、その美しさや技巧から高く評価されています。
黄庭堅(こうていけん)
黄庭堅(こうていけん)は、北宋時代の著名な書家、詩人、文学者であり、彼の才能は非常に多岐にわたっていました。
黄庭堅は洪州分寧県(現在の江西省九江市修水県)出身で、字を魯直(ろちょく)、号は山谷道人(さんこくどうじん)や涪翁(ふうおう)として知られ、一般的には黄山谷として親しまれています。
黄庭堅の詩は、蘇軾や陸游と同じく高く評価されており、宋代の詩人としてその名はトップに数えられる存在でした。特に、彼は12世紀初頭に形成された中国文学史上初の自覚的な詩派、江西派の開祖として讃えられています。
黄庭堅の書道における才能も非凡で、特に草書を得意としました。顔真卿や懐素などの名手から影響を受けつつ、自らの独自の書法を確立しました。
この才能は後の世に大きな影響を与え、黄庭堅は蘇軾、米芾、蔡襄とともに宋の四大家として称賛されました。
黄庭堅の人生には、政治的な波乱が伴っていました。若い時に進士に及第し、王安石の新法派との意見対立から地方の官職に転任されるなど、多くの試練を経験しました。
しかし、これらの試練は彼の芸術活動を豊かにし、詩書画の才能を開花させる環境となりました。
また、彼は親孝行で知られ、二十四孝の一人としても称えられています。彼の生涯は、才能と困難、政治と芸術が入り交じったものであり、その複雑な背景の中で彼はその名を歴史に刻んでいきました。
高駢(こうべん)
高駢(821年 – 887年)は、中国の唐代における重要な軍事指導者および詩人として知られる人物です。彼は元和初の功臣南平郡王、高崇文の孫として生まれ、家は代々禁衛に仕える家柄でした。若いころから彼は文芸に長け、多くの儒者と交流を深めました。
その後、禁衛配属としてのキャリアをスタートさせ、次第に昇進し、数々の地方指導者や軍指揮者としての役職を務めました。彼の武勇伝は特に卓越しており、一度、1本の矢で2羽の大鷲を撃ち落としたという伝説が残っています。
懿宗の時代には、高駢は辺境の黨項羌との戦いで顕著な功績を上げ、朝廷からの賞賛を受けました。その後、安南都護や静海軍節度使など、さまざまな要職を歴任しました。
しかし、高駢のキャリアは順調ではありませんでした。僖宗の治世の時、黄巣の乱が勃発し、高駢はこれに対応する任務を負わされました。彼は一時、この反乱を鎮圧する功績を上げるものの、後に道士の呂用之との関係が彼の運命を大きく左右することになります。
呂用之の影響を受けた高駢は、一時的に偽の朝廷に与し、中書令の地位を得ましたが、結局彼の部下であった畢師鐸らにより幽閉されることとなり、887年に命を落としました。
高駢の死は、その軍事的才能と政治的な舞台での動向を示すものとして、晩唐の混乱した時代を象徴する出来事の一つとなっています。
孔融(こうゆう)
孔融は中国の三国時代に活躍した政治家、学者であり、孔子の二十世の子孫としても知られます。彼の生涯は中国の史書『三国志』や『後漢書』などに記されており、その知識と機智、そして曹操との対立が特に注目されています。
彼の幼少期からのエピソード、特に李膺との面会時のやりとりは、彼の鋭い機知を示すものとして知られています。孔融が10歳のときに有名な李膺に会うために訪れ、彼の祖先である孔子と李膺の祖先である老子との関係を引き合いに出して李膺を感心させたエピソードは、彼の知識の深さとその時代の文化や価値観を反映しています。
また、家族を守るための自己犠牲の精神は、彼の義気や道徳的な姿勢を示すものとして称賛されています。孔融の兄、孔褒が死刑となった事件は、孔融の名声を高めることとなったが、それは彼の正義感と献身的な姿勢が背景にあったからです。
しかし、彼の生涯は曹操との対立によって終焉を迎えます。彼の直言を恐れた曹操によって、孔融は妻子とともに処刑されました。孔子の子孫を殺害したことは、曹操の評価をさげる要因の一つとして後世に伝わっています。
その後、孔融の文才は曹操の息子である曹丕(後の魏の文帝)によって高く評価され、彼の詩や文章は多くの人々に愛読されました。彼の文章や議論は、その時代の政治や社会の状況を反映しており、彼の知識や思考の深さを示すものとして後世に伝えられています。
孔融の死後も、彼の影響は中国の文化や歴史に大きな足跡を残しており、彼の業績や思想は今日でも多くの人々に尊敬されています。
紅楼夢(こうろうむ)
出典:wiki(徐宝篆の挿絵)
『紅楼夢』(赤楼夢)は、中国文学の最も重要な作品の一つであり、『中国四大名著』の一つとされています。この作品は、賈家という貴族家族の興亡と、賈宝玉と林黛玉、薛宝釵という三人の主要キャラクターを中心にした愛の物語を描いています。この物語は、清代の上流階級の生活や人間関係の複雑さ、人間の情感や欲望を深く掘り下げて描いており、そのリアリズムと詩的な表現で知られています。
作者、曹雪芹の背景には、彼の家族の過去の栄華と後の衰退があり、その経験が『紅楼夢』の物語に深く影響を与えていると言われています。曹雪芹自身の生涯やその背後にある社会的背景、そして彼が物語にどのように自身の体験や思いを反映させたのか、これらは『紅楼夢』を理解する上で非常に重要な要素となっています。
この小説は、ただの愛の物語や家族の興亡の物語としてだけではなく、その時代の社会や文化、人々の価値観や思考を反映する鏡のような存在としても評価されています。物語の中には、道教や仏教の思想も取り入れられており、これらの宗教や哲学的要素が物語の背景やキャラクターの行動や思考に影響を与えています。
『紅楼夢』は、その美しい言葉や詩的な表現、リアリズムと深い人間洞察によって、長い間中国文学の頂点として称されてきました。現代でも、この作品は多くの人々に愛され続けており、映画やテレビドラマ、舞台などさまざまなメディアで再解釈されています。
顧愷之(こがいし)
顧愷之は344年頃から405年頃までの生存した中国東晋時代の画家で、晋陵郡無錫県(現在の江蘇省無錫市)に生まれました。
顧愷之はその才能から「画聖」とも呼ばれ、謝安に「史上最高の画家」と評されるほどの実力者でした。
桓温や殷仲堪のもとで参軍として仕え、晋の安帝の時には散騎常侍の地位を得ました。顧愷之は『啓蒙記』や『文集』という著作を持ち、その博学と文章の才、さらには独自の呑気な性格で知られました。
特にサトウキビをかじる際の独特の方法や、その際の「漸入佳境」という答えは、感興が高まる形容として後世に伝わっています。
絵画の世界では、顧愷之の作品は唐代以降、名画の祖として高く評価されました。
特に張彦遠は顧愷之の画論を『歴代名画記』に記載し、彼の考えや技法について詳細に述べています。
顧愷之自身、人物画の中でも瞳を描く「点睛」の技法の重要性を特に強調していました。
清朝の初期には、顧愷之の作品がいくつか挙げられており、特に『洛神賦図』と『女史箴図』は彼の原図の特徴を最もよく表しているとされています。
出典:wiki(女史箴図)
古楽府(こがふ)
楽府は、古体詩の一種で、漢魏時代の漢詩の形式です。
元々は前漢の武帝の時代に設立された音楽官署の名称で、作曲や変曲、楽団の育成を司っていました。
後にこの名称は、楽府で集められた歌謡そのものを指す言葉となりました。
武帝は、司馬相如をはじめとする詩人たちに民間の歌謡を集めさせ、これらの楽曲は燕、代、秦、楚などの地域から集められた民謡楽府、朝廷楽府、西域の音楽などが含まれるようになりました。
文学の歴史の中で、「楽府」の形式は晋代以降で特に注目されるようになりました。
漢魏時代の古曲に基づいた楽府を「楽府古辞」と称し、六朝時代の民間歌謡に基づくものを「楽府民歌」と称します。これらをまとめて「古楽府」と呼びます。
しかし、唐代に入ると、古楽府は演奏の場でほとんど取り上げられなくなり、その形式を持った詩歌が朗読の対象として人気を博しました。
さらに、中唐の時代以降、白居易などの詩人たちが新しい題材で楽府を作るようになり、これは「新楽府」として知られるようになりました。
郭茂倩が北宋時代に編纂した『楽府詩集』には、漢から唐までの歌謡や、文人がその既存の題材を借りて創作した詩、新楽府などが収録されています。
古今集(こきんしゅう)
出典:wiki(「古今和歌集仮名序」(巻子本) 仮名序の冒頭。「古今倭歌集序」と最初に書くが、通常の『古今和歌集』の伝本にはこの題はない。12世紀ごろの書写で国宝に指定されている。大倉集古館蔵。)
『古今和歌集』(こきんわかしゅう)は、平安時代に成立した勅撰和歌集であり、和歌の歴史や文学史において非常に重要な位置を占めており、略称を『古今集』(こきんしゅう)といいます。
この和歌集は、日本古典文学の中でも高く評価されてきた作品の一つですが、その評価は時代や文化的背景によって変動してきました。
- 成立と編纂者:
- 『古今和歌集』は平安時代に成立し、勅命により編纂された最初の勅撰和歌集です。
- 編纂は延喜5年(905年)に奏上されたが、延喜13年(914年)または14年ごろまで内容の修正が行われたとされています。
- 主要な編纂者には紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人がいます。中心として活動したのは紀貫之で、紀友則は途中で亡くなったとされています。
- 歌人と内容:
- 『古今和歌集』には多くの歌人の歌が収録されていますが、読人知らずの歌も多数あります。
- 代表的な歌人としては、紀貫之、凡河内躬恒、紀友則、壬生忠岑、素性、在原業平、伊勢、藤原興風、小野小町、遍昭、清原深養父、在原元方などがいます。
- 影響と評価:
- 『古今和歌集』は平安時代中期以降の国風文化の確立に大きく寄与しました。
- 中世以降、『古今和歌集』は和歌の手本として尊重され、多くの歌人や学者によって研究されました。
- 江戸時代に入ると、『古今和歌集』の歌風は「たおやめぶり」と形容され、『万葉集』との対比でその評価が下がりました。
- 明治時代には、正岡子規や和辻哲郎、萩原朔太郎などの文人によって批判され、『古今和歌集』の評価はさらに下がりました。
- それに対して、『万葉集』の評価は上昇し、「雄大かつ素朴」と評されました。
これらのポイントは、『古今和歌集』の成立からその影響、評価の変遷についての概要を示しています。この和歌集は日本の歌文化や文学史において非常に重要な位置を占めており、多くの研究や講義の対象となっています。
出典:「高野切」 巻第一春歌上の冒頭。五島美術館蔵。
国語(こくご)
国語は、中国の春秋時代を記述した歴史書です。
この書物の著者については、春秋左氏伝の著者である魯の左丘明がその人物であると言われているものの、その事実は確定されていません。実際の成立時期に関しても、戦国末期に書かれたという意見も存在します。
しかし、昔から春秋左氏伝の「外伝」とみなされてきたため、漢書では「春秋外伝」という名称で紹介されています。このことから、国語と春秋左氏伝との間には何らかの関連性が考えられています。
国史略(こくしりゃく)
「国史略」は江戸後期に書かれた歴史書で、岩垣松苗が著した5巻からなる作品です。この書籍は文政9年(1826年)に出版されました。
内容としては、神代から天正16年(1588年)の後陽成天皇の聚楽第行幸までの歴史を、編年体により漢文で詳述しています。また、この書籍には有名な人物の略伝やその著書についての情報も付記されています。
更に、谷寛得と小笠原勝修による「続国史略」が書き継がれ、原書の補完や続編としての役割を果たしています。
国朝漢学師承記(こくちょうかんがくししょうき)
「国朝漢学師承記」は全8巻から成る清の学者、江藩(1756-1831)の著作です。江藩は字(あざな)を子屏(しへい)、号を鄭堂(ていどう)とし、江蘇省甘泉県(現在の揚州市)の人物です。1818年、当時両広総督であった阮元の幕下で刊行され、その後版を重ね、『国朝経師経義目録』『国朝宋学淵源記』を付けています。
「国朝漢学師承記」は、各学者に関する碑・誌・伝・状や、それらの学者の著述に見える経説を組み合わせて列伝の形式を取りつつ、当時発展途上にあった清朝の経学(漢学)の生きた学術史を描き出しています。師承とは、漢学において重んじられる学問の伝承を指しており、この作品では漢学の研究方法を提唱しています。
また、「国朝漢学師承記」は、宋学派が好む唐宋八家の文を排除し、駢文(伝統的な美文)を賞賛するという文学上の主張も含んでいます。この主張は、当時の桐城派の方東樹から『漢学商兌』などの形で批判を引き起こしました。
古今楽録(ここんがくろく)
著作者名 (南朝陳) 友匠。
古今詩話(ここんしわ)
胡銓(こせん)
胡銓(1102頃 – 1180)は、南宋時代の政治家であり、字は邦衡です。彼は建炎2(1128)年に進士として優秀な成績を修め、その後枢密院編修官、工部侍郎、資政殿大学士と次々に昇進しました。
胡銓の最も注目すべき特徴の一つは、彼が宰相秦檜と強く対立したことで知られていることです。胡銓は「対金主戦論者」として知られ、金(現在の北中国を支配していた国)との戦争を主張しました。これは秦檜が主導した和平政策とは大きく対立するものでした。
彼の生涯と思想は、文集『澹菴集』に収められています。この作品は、彼の知識、洞察力、そして持続的な戦争を求める信念を示しています。胡銓の政策と見解は、南宋時代の政治情勢の一面を物語っており、その時代の学者や歴史家にとって重要な資料となっています。
五朝名臣言行録(こちょうめいしんげんこうろく)
朱熹(しゆき)(子)の著。〈五朝名臣言行録〉10巻(前集),〈三朝名臣言行録〉14巻(後集)の総称。前者は宋初より英宗朝に至る65人,後者は英宗朝から徽(き)宗朝に至る42人の伝記をそれぞれ収める。
金剛経(こんごうきょう)
「金剛般若波羅蜜経」、通称「金剛経」は大乗仏教の般若経典の一つで、サンスクリット本、チベット本、漢訳本として様々なバージョンが存在します。
特に、漢訳本の中でも鳩摩羅什による訳本が最も古く、かつ名高いものとされています。
金剛経は比較的短編の経典で、その内容は3世紀以前の大乗仏教初期に既に成立していたとされています。経典の特徴として、通常の般若経典と同様に「空」の思想を説くものでありながら、「空」の語彙自体は一度も用いられていない点が挙げられます。
また、経の冒頭では「ある時ブッダは舎衛国の祇園精舎に1250人の修行僧たちとともにおられた」と述べられた後、主な参加者の名前を列挙せずにいきなり本編が始まるという、原始的な経典の特徴を示しています。
この短編でありながら凝縮された内容から、金剛経はインド、中央アジア、東アジア、チベットなど様々な地域で普及し、多くの注釈書が作られました。特に東アジアでは、禅宗の第六祖である慧能がこの経の一句で大悟したとされています。その影響力は禅宗を始め、天台宗、三論宗、法相宗、真言宗といった宗派、また、儒家・道家に至るまで広範に及び、多数の註釈・講義が成立しています。
金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)
出典:wiki(敦煌で発見された金剛般若経、咸通9年(868年)刊刻。)
金剛般若経(正式名称:金剛般若波羅蜜経)は、大乗仏教の般若経典の一つであり、しばしば金剛経と略して呼ばれます。この経典は比較的短編であり、その長さから「三百頌般若経」などとも称されます。
金剛般若経は、「空」の思想を説いているにもかかわらず、「空」の語彙が一度も使用されていないという特徴を持ちます。
この経典の冒頭では、「このように私は聞いた。ある時ブッダは舎衛国の祇園精舎に1250人の修行僧たちとともにおられた。」と述べられています。
しかし、通常の経典ではこのあと主な参加者の名前が列挙されるのに対し、金剛般若経では突然本編が始まります。このような特徴は、原始的な経典の特性と見なされています。
金剛般若経は、その内容が凝縮されており、また比較的短いため、インド、中央アジア、東アジア、チベットといった地域に広く普及し、注釈書も数多く作成されています。
チベットやモンゴルでは、この経典を「紺紙金泥」で写経する風習が現在まで続いています。
東アジアでは、禅宗の第六祖(南宗初祖)である慧能がこの経の一句で大悟したとされ、禅宗で特に愛読されています。
また、天台宗、三論宗、法相宗、真言宗といった宗派や、中国や日本などの地域においても、さらには儒家や道家に至るまで、多数の注釈や講義が成立し、その影響は各方面に及んでいます。
呉越春秋(ごえつしゅんじゅう)
『呉越春秋』は、中国の春秋時代の呉と越の興亡を詳細に記した歴史書で、後漢初期の趙曄(ちょうよう)によって著されました。
趙曄は会稽郡山陰県(現在の浙江省紹興市柯橋区)の出身で、当初は県吏の職についていましたが、後に官職を捨てて杜撫に『韓詩』を学びました。彼の著作は多くが韓詩関連のもので、『呉越春秋』以外は現代に伝わっていません。
趙曄の生卒年は不明ですが、杜撫が没するまで20年間学んだとの記録と、杜撫が76年から84年の間に没したことから推測すると、彼はおおむね1世紀後半から2世紀前半に活動していたと考えられます。
『呉越春秋』の原本は12巻で構成されていたとされていますが、後の時代に楊方によって5巻に縮小され、さらに唐の皇甫遵が趙曄と楊方の二書を校訂し、注を付けました。現行の『呉越春秋』は皇甫遵の版を基にしたもので、10巻から成り立っています。
前半5巻は呉の歴史、後半5巻は越の歴史に焦点を当てています。特に呉の闔閭・夫差と越の勾践の記事が大部分を占めています。
趙曄の『呉越春秋』は春秋時代の呉・越についてのもう一つの書物である『越絶書』を基にしており、記事の中には『越絶書』を参照した箇所が多く見られます。この書物は、呉越両国の歴史を詳細に追いながら、時折小説的な要素を取り入れて描かれています。
後漢書(ごかんじょ)
出典:wiki(後漢書)
『後漢書』は、中国の後漢時代を記述した歴史書で、二十四史の一部として位置づけられています。全120巻で構成され、本紀10巻、列伝80巻、志30巻という形にまとめられています。
この作品は南朝宋の范曄が本紀と列伝を執筆し、後に西晋の司馬彪が書いた『続漢書』の志部分が追加されることで完成しました。范曄は学問に秀でた家系に生まれ、若いころから経書や史書に精通していました。その経歴から、彼自身の見解や評価を交えながら『後漢書』を執筆したとされています。
一方、後漢の歴史をまとめる取り組み自体は、後漢時代に始まり、『東観漢記』として編纂されました。
しかし、この『東観漢記』は多くの人々の手が加わったため、一貫性に欠ける部分もあったとされています。これを改善すべく、個人や少数のグループが手掛ける『後漢書』の執筆が行われました。このプロジェクトには、呉の薛瑩や東晋の袁山松なども関与しました。
現在の『後漢書』の形になったのは、南朝梁の劉昭が范曄の作品に司馬彪の志部分を追加し、全体に注釈を付けた結果です。その後、唐代に入って章懐太子李賢が新たな注釈を付けるなど、多くの学者がこの歴史書を研究し続けました。
現代でも、『後漢書』の内容や評価には様々な意見が存在します。特に曹操に関する評価は、時代や研究者によって異なる見解が存在するなど、その解釈には大きな幅があります。
呉象之(ごしょうし)
「少年行」と題する七言絶句。
五灯会元(ごとうえげん)
五灯会元は、中国の南宋代に大川普済によって1252年に編纂された禅宗の歴史書です。
この書は「五灯録」と総称される5つの灯史、すなわち『景徳伝灯録』、『天聖広灯録』、『建中靖国続灯録』、『聯灯会要』、『嘉泰普灯録』を総合し、それらを集大成して禅宗の通史としてまとめたものです。
この五灯会元の書名自体、これら5つの灯史を総合することを表現しています。
五灯会元の登場以後、灯史の編纂は清朝まで続きました。
ただし、五灯会元が登場することで、灯史の系譜に新たな意味合いが持たれるようになりました。具体的には、禅宗だけの系譜ではなく、仏教全体の歴史を記述するような書が登場するようになりました。
この変化には、天台宗からの仏教史書『仏祖統紀』への対抗意識が影響しているとされますが、同時に禅宗が仏教界を支える必要がある時代背景も作用していると言われています。
さらに、清代には五灯会元の続編として『五灯会元続略』(遠門浄柱が1651年に編纂)や『五灯全書』(霽崙超永が1693年に編纂)も作成されています。