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四字熟語の出典・典拠一覧(解説付き)

四字熟語の典拠・出典一覧

「た行」四字熟語の典拠・出典

「た」四字熟語の典拠・出典
太上隠者 大智度論 太平御覧
太平広記 大慈恩寺三蔵法師伝 大荘厳論経
大戴礼 大唐新語 大般若経
大般若波羅蜜多経 大般涅槃経 太平記
歎異抄
「ち」四字熟語の典拠・出典
竹馬抄 茶湯一会集 中阿含経
中庸 中庸章句 張説
張元幹 張衡 長生殿
晁補之 朝野僉載 張耒
陳書 椿説弓張月 陳傅良
陳亮
「つ」四字熟語の典拠・出典
通俗編 月瀬記勝
「て」四字熟語の典拠・出典
程頤 帝王世紀 鄭谷
丁鶴年 帝範 輟耕録
伝習録
「と」四字熟語の典拠・出典
竇娥冤 東観漢紀 東斎記事
唐詩紀事 唐書 陶潜
東坡禅喜集 東方朔 唐律疏議
読史管見 独断 杜甫
杜荀鶴 杜牧 杜預
杜陽雑編 敦煌変文集

太上隠者(たいじょういんじゃ)

太上隠者に関して、具体的な姓名や事績は明らかではありません。言葉「太上」には「最上・最高」という意味と、「最古・太古」という意味があり、この文脈では「最古・太古」の意味と解釈されています。

しかし、「太上」が太上隠者の自称なのか他人からの称号なのかも不明確です。「隠者」とは、社会の雑念や煩わしさから遠ざかり、山中や僻地で隠居生活を送る人を指す言葉で、隠遁者や隠士、隠君とも呼ばれます。


大智度論(だいちどろん)

『大智度論』は、大乗仏教中観派の祖、龍樹(ナーガールジュナ)の著作とされる仏教書で、全100巻からなります。この著作は、『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経)に対する詳細な注釈書として知られ、初期の仏教からインド中期仏教までの術語や思想を詳細に解説しています。

題名の「大智度論」は、「摩訶般若波羅蜜経」に関する論という意味を持ちます。「智度」は、「般若波羅蜜」、すなわち「智慧」や「般若」の意味を持つ「智」と、「彼岸に渡ること」を意味する「度」から成り立っています。

漢訳は、鳩摩羅什(くまらじゅう)によって行われましたが、翻訳の過程で大幅な加筆や改変が行われたとされます。特に『大品般若経』の序品の注釈には34巻を使用し、その後は抄訳となっています。これから、鳩摩羅什自身が注釈を増やした、あるいは龍樹の名を借りた編纂説も存在します。

現在、サンスクリットの原本は残っておらず、中国や日本での影響が特に大きいと言われています。その内容は、空の思想や菩薩の実践、六波羅蜜などの仏教の深い教えを詳しく扱っています。

ただし、著者や編纂に関する議論は絶えず、龍樹の実際の関与や鳩摩羅什の役割についての確固たる結論はまだ出ていません。


太平御覧(たいへいぎょらん)

『太平御覧』

『太平御覧』(たいへいぎょらん)は、中国宋代初期に編纂された百科事典のような類書です。北宋の李昉ら13人が太宗の勅命を受け、977年から983年にかけて編纂しました。総数は1000巻で、元々の名前は『太平総類』でしたが、太宗が毎晩3巻ずつ閲読し、1年で読了したことから『太平御覧』と改名されました。

この書は、天部、時序部、地部、皇王部など全55部から構成されています。これらの部はさらに、5426類目に細分化されており、各項目では多くの古典からの抜粋や情報が収録されています。引用された書籍は、巻頭の書目によると1690種にのぼります。これには重複も見られますが、詩や賦などを加えると2000種以上となります。なお、引用された書籍の中には、すでにその時点で原書が失われていたものもあり、前代の類書から間接的に引用されたものも含まれています。現在は多くの引用された書が亡失しており、『太平御覧』はこれらの資料として非常に価値が高いです。

この類書は、同時期に編纂された『太平広記』、『冊府元亀』、『文苑英華』とともに、四大書(宋四大書)と称されるものの一つです。日本にも影響を及ぼし、一部は静嘉堂文庫や金沢文庫に所蔵されています。


太平広記(たいへいこうき)

『太平広記』(たいへいこうき)は、中国・宋代の物語全書で、全500巻から成る。977年、李昉らが太宗の勅命を受けて編纂を始め、978年に完成した。この書は、神仙、女仙、道術、方士などの92の項目に分類された小説や説話を集めている。引用された書は475種で、多くの古代の書物が引用されており、中には今日原書が失われ、『太平広記』によってのみ伝わるものも多い。そのため、中国の小説史研究にとって基本的な資料となっている。

本書は、中国の文学発展に影響を与えただけでなく、朝鮮や日本にも伝わり、各地でさまざまな作品に影響を与えてきた。例として、李氏朝鮮で『太平広記詳節』や『太平広記諺解』が作られたり、日本では『怪談全書』が作られるなどの影響を持っている。

収録された話の題名は、話の初めに出てくる人物の名前を取ることが多い。たとえば「枕中記」という話は、『太平広記』では「呂翁」として収録されているが、他の書籍では原題が保持されている。

明代には、談愷がこの書の写本を入手し、1566年に再び出版したことで広く知られるようになった。


大慈恩寺三蔵法師伝(だいじおんじさんぞうほっしでん)

『慈恩寺三蔵法師伝』(じおんじさんぞうほうしでん)、または『大慈恩寺三蔵法師伝』や単に『慈恩伝』とも呼ばれるのは、中国・唐時代の恵立が撰し、彦そうが増補した玄奘三蔵の伝記です。

この伝記は10巻から成り、688年に成立しました。内容は、玄奘三蔵の生い立ちからインドへの旅行とその後の帰国までが詳細に記されています。特に前半5巻はインドへの求法の巡礼について、後半5巻は帰国後の経典の漢訳活動に焦点を当てています。

この伝記は、小説『西遊記』のモデルとして知られ、玄奘自身が記した『大唐西域記』とともに、中国や西域・インドの情報を伝える貴重な史料となっています。


大荘厳論経(だいしょうごんろんきょう)

2世紀の仏教詩人馬鳴(めみよう)は、仏伝を一大文学として確立した《ブッダチャリタ(仏所行讃)》をはじめ、《サウンダラナンダ》、《シャーリプトラ・プラカラナ》、そして《大荘厳論経》などの作品を手掛けました。

これらの作品は馬鳴の独特の文学的修辞によって書かれ、インド古典文学の先駆的な意義を持つ文学作品として高く評価されています。特に《大荘厳論経》は、その文学的価値と馬鳴の修辞技巧によって、インド古典文学の中で重要な位置を占めています。


大戴礼(だいたいれい)

『大戴礼』(だたいれい)は、前漢時代に存在した儒教の文献で、主に礼に関する論述を集めたものです。もともとは85篇からなっていましたが、現在は39篇のみが現存しています。この文献は、古代の礼関連の文献、『礼の記』『孔子三朝記』『曽子』などを基にして編纂されました。一部の学説によれば、儒者戴徳が編纂したとされており、彼の甥の戴聖が著した『礼記』(小戴礼記)との区別から『大戴礼記』とも呼ばれます。

内容としては、体系的なものではなく、さまざまな論文が集められています。その中には、「三従七去」という篇も含まれており、これは儒教における夫婦関係や女性の役割に関する教えを示しています。具体的には、「三従」とは女性の生涯における三つの「従うべき相手」、すなわち、幼い時の父、成人後の夫、老いた時の子を指し、その上で「七去」とは夫の家から離縁される理由とされる7つの条件を示しています。

この『大戴礼』は、古代中国の礼儀や文化を理解する上で貴重な文献とされ、後世の学者や研究者による注釈や考証が行われています。


大唐新語(だいとうしんご)

『大唐新語』(ダイタウシンゴ)は、中国の小説で、全13巻から成り立っています。唐の時代の劉粛によって撰されたこの作品は、武徳から大暦年間(618年 – 779年)の人物をその徳性に基づき、匡賛・清廉・孝行などの12門に分類して記述しています。この小説は、人々に道徳を教え、勧めるためのものとして書かれたもので、「唐世説」とも呼ばれています。


大般若経(だいはんにゃきょう)

『大般若経』(だいはんにゃきょう)は、大乗仏教の初期の経典で、全600巻から成り立っています。サンスクリット名は『マハープラジュニャーパーラミター・スートラ』。この経典は、般若経典類、つまり空(くう)を説く教えを集大成したもので、16部に分かれています。唐の時代、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が660年から4年の歳月をかけて漢訳を行いました。この経典は日本にも広く伝えられ、多くの寺院で保存されています。サンスクリットの原典は現存していません。

この『大般若経』には、さまざまな般若経典が含まれており、中でも『大品般若経』、『小品般若経』、『文殊般若経』、『金剛般若経』などが知られています。また、この経典の要約とされる『般若心経』との関連も注目されていますが、定説は確立されていません。

日本では703年(大宝3年)に文武天皇の時代に『大般若経』の転読(経題や経の初中終の数行の略読を繰り返すこと)が行われ、その後も宗派を問わず勅命による転読が行われてきました。


大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう)

『大般若波羅蜜多経』(だいはんにゃはらみったきょう)は、仏教経典の一つで、唐代の玄奘による翻訳が著名です。通称は『大般若経』(だいはんにゃきょう)で、短縮して『般若経』(はんにゃきょう)とも呼ばれます。この経典は、大乗仏教の基礎的教義が纏められたもので、全16部600巻に及びます。

般若経典は約150年頃に原形が成立し、サンスクリット文字で記述されました。その後、多くの経典へと発展しました。645年に玄奘が西域から帰国した際、持ち帰った経典の翻訳を始めました。玄奘の指揮のもと、『大般若波羅蜜多経』の翻訳は660年に開始し、663年に完了しました。この翻訳は日本にも伝えられ、現在多くの寺院で保存されています。しかし、原文のサンスクリット版は現存していません。

なお、『般若心経』という経典に関しては、『大般若波羅蜜多経』の要約という説もあるものの、『大般若波羅蜜多経』には含まれておらず、確定的な見解はありません。玄奘が『般若心経』を翻訳したのは649年であり、『大般若波羅蜜多経』の翻訳よりも以前です。

『大般若波羅蜜多経』は、般若、すなわち真実の智恵が具体的なものでなく、概念的認識によるものでないことを強調しています。この経典には、『大品般若』や『道行般若』、『文殊般若』など、多くの重要な教えが含まれており、中国や日本では極めて価値ある経典とされています。


大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)

『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう)は、釈迦の入滅(大般涅槃)に関する仏教経典の総称です。この経典は、釈迦の晩年から入滅、さらに入滅後の舎利の分配などが詳しく記述されています。

初期の『涅槃経』には、上座部仏教のパーリ語経典の長部第16経として存在し、漢訳では『長阿含経』の「遊行経」や『仏般泥洹経』、『般泥洹経』、『大般涅槃経』などがあります。

一方、大乗仏教における『涅槃経』は、初期のものと内容は似ていますが、主張する思想が異なり、「一切衆生悉有仏性」を説きます。これは、すべての衆生に仏となる可能性や本性があるという教えです。大乗の立場からは、『大般涅槃経』が大正蔵にも収録されており、曇無讖の訳したものや、法顕の訳したものなど、異なるバージョンが存在します。

特に大乗の『涅槃経』は、如来が常に存在し、変わることがないとともに、すべての衆生に仏性があると教えます。この経典は中国で高く評価され、仏性の思想は後の中国や日本の仏教にも大きな影響を与えました。

中国では涅槃宗という宗派が成立しましたが、日本には直接伝来しなかったことも注目されます。


太平記(たいへいき)

太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学の一つで、軍記物語として分類される。全40巻から成るこの作品は、南北朝時代の約50年間(1318年から1368年頃)を舞台に、後醍醐天皇の即位、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政の興亡、南北朝の分裂、そして細川頼之の管領就任までを描いています。表題の「太平」は、平和を祈願する意味合いを持ち、怨霊の鎮魂の意義も含んでいるとされています。

作者や成立時期については明確でなく、14世紀中ごろまでには成立していたと考えられています。円観、玄慧など室町幕府と密接な関わりを持つ知識人たちが編纂に関与した可能性が指摘されており、室町幕府の3代将軍・足利義満や管領・細川頼之も修訂に関わったとの見方もあります。しかし、この作品が一人の手によって短期間に書かれたものではないことは広く認知されています。特定の作者名として「小嶋法師」の名が挙げられることが多いが、詳細は不明であり、様々な説が存在します。

内容的には、南朝に肯定的な視点が強く、南朝側の人物が書いた可能性や、南朝への鎮魂の意味が込められているとも言われています。また、当時の社会風潮である「ばさら」や下剋上への批判的な視点も見受けられます。

後代の文芸、特に謡曲や浄瑠璃、草双紙などにも影響を与え、さらに戦後には、『太平記』を題材にした小説やテレビドラマも多数制作されています。


歎異抄(たんにしょう)

『歎異抄』(たんにしょう)は、鎌倉時代の仏書で、浄土真宗の開祖親鸞の法語録として知られています。親鸞の死後、信徒の間に異説や異端が生まれたため、これに対して親鸞の正統な教義を示す目的で編集されました。編者については、唯円(ゆいえん)の名が最も広く受け入れられていますが、如信や覚如の名も挙げられています。

全文は19条からなり、前半の10条には親鸞の法語がそのまま収録されており、後半では異義を列挙し、それに対する批判が記されています。この書は、親鸞の思想や信仰を知るための重要な文献として珍重されています。


竹馬抄(ちくばしょう)

『竹馬抄』(ちくばしょう)は、室町時代前期の教訓書で、斯波義将の著とされています。この書物は、永徳3年(1383年)2月9日に成稿されたとされ、1巻からなります。斯波義将は、室町幕府の管領として、また『新後拾遺和歌集』にも名を残す文武両道を兼備した代表的な武将でした。

『竹馬抄』は、子孫のための家訓として記されており、武士の心得や作法に関する詳しい記述が含まれています。主な教訓として、人の外形や事物の本質を見抜く能力、行儀や作法、親子や仏神との関係、そして知恵、正直、慈悲を人倫的教化の根本原理として掲げています。また、武士としての理想の姿として、『源氏物語』や歌道を通じて物のあはれを理解し、文武兼備の武士となるべきことが強調されています。


茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)

『茶湯一会集』(ちゃのゆいちえしゅう)は、江戸時代末期の茶書で、彦根藩主であった井伊直弼(茶号:宗観)が著したものです。彼は不遇の時期に石州流の茶法を学び、多くの茶書を研究しました。特に『南方録』を通じて、千利休や南坊宗啓、山上宗二の茶の精神に触れ、茶の湯の本来の姿を深く理解しました。

この書では、茶の湯の心得が「一期一会」と「独座観念」に集約されると説明されており、それを体現するためには茶席全般にわたる細やかな心配りが不可欠であると述べられています。具体的には、主客の約束、前礼、着服、懐中物、露地や数寄屋の扱い、道具、懐石などの要点について触れられています。

書の冒頭では、「一期一会」の思想を強調し、その出会いを大切にするための主客双方の心構えを強調しています。成立時期は安政5年(1858年)頃と考えられ、彼が大老に就任する直前、また桜田門外の変で命を落とす2年前の時期とされています。

この書は、激動の幕末という時代背景の中で、静寂な茶室の心を伝えるものとして、後世においても多くの人々に魅力を感じさせています。


中阿含経(ちゅうあごんきょう)

『中阿含経』(ちゅうあごんきょう)は、仏教の漢訳『阿含経』の中の1つで、説一切有部が伝える経典です。この経典は、パーリ語経典の「中部」(マッジマ・ニカーヤ)に相当します。また、大正新脩大蔵経No26に収録されています。


中庸(ちゅうよう)

儒家思想

出典:wiki(儒家思想)

中庸(ちゅうよう)は、儒教の中心的な概念としても知られ、『四書』の一部です。

この言葉は、『論語』で「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と孔子に賛嘆されており、過不足や偏りのない理念を指します。

古代ギリシャでは、アリストテレスの「メソテース」として同様の徳目が存在し、仏教の中道との関連性も指摘されることがありますが、実際には異なる概念と言われています。

文献としての『中庸』は元々『礼記』の一篇で、その成立や作者に関しては諸説が存在します。

現代でも『四書』の一つとして広く知られています。司馬遷の『史記』では、子思が著者とされています。宋代には多くの学者や政治家が注釈を行い、中でも朱子の『中庸章句』が特に知られています。朱子学では、『中庸』は四書の中で最後に読むべきものと位置付けられました。

『中庸』の教えは、過不及のない平常の道理を基本としています。

この道理は天に基づいて人間に与えられるものとされ、人間の感情や行動のバランスを通じて、天地や万物との調和を追求するものとされています。

これが儒教の根本理念として重視されてきました。


中庸章句(ちゅうようしょうく)

『中庸章句』は、儒教の「四書」の注釈書の一つです。四書とは、『論語集注』、『孟子集注』、『大学章句』、『中庸章句』の4編からなるもので、南宋の朱熹が力を注いで著述したものであり、死の直前まで改稿を続けていたとされています。

『中庸』自体は、儒教における中心的概念の一つで、元々は『礼記』中の一篇、すなわち「礼記中庸篇」として伝えられていました。「中庸」の徳や「誠」「性」「道」「慎独」などの概念について詳しく解説されています。『大学』が四書の入門であるのに対して、『中庸』はその最後に読むべきものと位置付けられ、多くの著名な人物が注釈を付けてきました。その中でも、朱子の『中庸章句』は特に知られているものとなっています。


張説(ちょうえつ)

張説(ちょうえつ、667年 – 730年)は、中国唐時代の著名な政治家、文学者です。彼は洛陽(河南省洛陽市)の出身で、字は道済または説之と称されました。西晋の司空の張華の末裔とされています。

彼の政治生涯は多彩で、688年に詞標文苑科の科挙に及第してから、太子校書郎に任命されました。しかし、703年に権臣である張易之とその兄弟が魏元忠の謀反を誣告した際、張説はこれを偽証とし魏元忠を擁護。その結果、欽州に流罪となりました。後に中宗や玄宗の信任を得るきっかけとなったこの事件は、張説の正義感と誠実さを示しています。

713年、玄宗が太平公主に対して挙兵を決断した際、張説はその功績で燕国公に封じられました。彼は三度宰相を務め、門閥官僚との対立を繰り返しながらも、最終的には尚書左丞相の地位に至りました。

文学者としても、張説は宮廷詩人としてその地位を確立。彼の詩文は許国公の蘇頲とともに「燕許大手筆」と称えられました。彼の主要な著作として『張説之文集』が伝わっています。

家族としては、子に張均・張垍・張埱がいました。


張元幹(ちょうげんかん)

張元幹(ちょうげんかん、1091年~不明)は、両宋期に活動した詞人で、豪放な作風で知られています。字は仲宗、号は葦川居士と称されました。彼の出身地は長楽(現在の福建省内)です。


張衡(ちょうこう)

張衡(ちょうこう、78年 – 139年)は、中国後漢時代の著名な文学者および科学者で、字は平子といいます。彼の出身地は南陽郡西鄂(現在の河南省南陽)です。文学者としては、『西京賦』『東京賦』をはじめとした詞賦で知られ、特に『四愁詩』は最初の明確な七言詩として評価されています。

科学者としての彼の業績は非常に幅広く、天文、暦算、陰陽の学問に詳しかった他、渾天儀や指南車、木雕といった機械製作の才能も持っていました。特筆すべきは、132年に製作された候風地動儀という地震感知装置で、これにより地震の震源地の方向を特定することができました。

官職としては、安帝に召され、侍中や河間相として治績をあげ、後には尚書となりましたが、139年に亡くなりました。


晁補之(ちょうほし)

晁補之

晁補之(ちょうほし、1053年 – 1110年)は、中国北宋時代の文学者で、済州鉅野(山東省)の出身です。彼の字は無咎で、帰来子と号します。17歳の時、父・晁端友に連れられ杭州を訪れ、その地の風物を詩に詠んだことで、蘇軾にその才を見出されました。後に、彼は元豊2年(1079年)に進士として、郷試・会試ともに第一位に輝きました。

官職としては、北京国子監教授や太学正、著作佐郎などを歴任。しかし、一時期、記述の間違いを理由に左遷されるなどの経緯もありました。晩年は、泗州知州として赴任したが、その地で没しました。南宋の高宗より、龍図閣直学士の称号を追贈されました。

彼は陶淵明を尊敬し、故郷に帰来園を築きました。晁補之の著作として、族弟・晁謙之が編纂した『鶏肋集』が残されています。また、楚の詞論に通じ、屈原や宋玉の賦を収集して『変離騒』という書を編纂しました。

同時代の蘇軾とは、門下生としての関係だけでなく、運命を共にするような官界での経緯もありました。黄庭堅・秦観・張耒と並び、「蘇門四学士」として称されるほどの文才を持っていました。


張耒(ちょうらい)

張耒(ちょうらい、1054年 – 1114年)は、中国北宋時代の著名な文学者です。彼の字は文潜、また号は柯山と称されました。彼は楚州淮陰(現在の江蘇省清江市)出身で、若い頃からその文才を発揮しました。蘇軾にその才能を認められて門下生となり、後には「蘇門四学士」として黄庭堅、晁補之、秦観とともに称されるほどの名声を得ました。

彼の官職の経歴は、太学博士から始まり、元祐元年(1086年)には秘書省正字や著作佐郎として勤務しました。やがて、起居舎人や龍図閣直学士としての地位も経験しましたが、新法と旧法の間の党争に巻き込まれ、時には左遷も経験しました。特に蘇軾の失脚とともに潤州知事時代には不遇の日々を送りましたが、陳州に隠退し、多くの門人に教え、宛丘先生としての尊敬を受けました。

張耒の文学活動において、彼の詩は白居易の影響を受け、楽府は張籍の様式に倣ったとされます。また、彼の詞は柳永や秦観の作風に近く、明確で理に基づいた文章を目指していました。彼の主な著作としては『張右史文集』(60巻)や『詩説』(1巻)があります。


陳書(ちんしょ)

二十四史

『陳書』(ちんしょ)は、中国の二十四史の中の一つです。これは、南朝時代の最後の王朝、陳の正史として記されたもので、唐の史学家姚思廉(ようしれん)によって太宗の勅命を受けて編纂されました。成立は636年です。

内容としては、陳の皇帝や王を中心にした本紀6巻と、国に仕えた家臣や周辺の異民族のエピソードをまとめた列伝30巻、合計36巻から成り立っています。特筆すべきは、この史書には表や志の部分が含まれていない点です。

また、11世紀頃には北宋の史館修撰、曾鞏らの手によって再び刊行されました。


椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)

『椿説弓張月』

『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)は、江戸後期の読本で、曲亭馬琴の著作に、葛飾北斎が挿絵を手がけました。全五編29冊から成り立ち、文化4年(1807年)から文化8年(1811年)にかけて刊行されました。版元には平林庄五郎と文刻堂西村源六が含まれます。

物語の内容は、日本史上の英雄、源為朝の生涯を中心に展開されます。彼は九州に下り、八町礫紀平治を家来に迎え、白縫姫と結婚します。しかし、保元の乱で敗れ、伊豆大島に流されます。その後、大島から脱出し、兵を起こすものの、海上での暴風雨によって琉球に漂着します。琉球では、尚寧王の姫との間での策略や戦いが繰り広げられ、為朝は琉球を平定。さらにその子、舜天丸が琉球王に即位するという物語です。

この作品は、馬琴が中国清代の白話小説や日本の古典から受けた影響を基に、史実と伝説、そして虚構を巧みに組み合わせて創作されました。特に為朝が琉球に流れ、その子が琉球王となるという設定は、史上不遇の英雄を再評価し、大衆の心情に訴える狙いがありました。その雄大な構想と絢爛たる文章により、馬琴の代表作として『南総里見八犬伝』と並ぶ評価を受けています。


陳傅良(ちんふりょう)

陳傅良(ちんふりょう)は、紹興7年(1137年)に生まれ、嘉泰3年(1203年)に亡くなった中国の南宋時代の学者・文人です。彼は浙江省の瑞安出身で、字は君挙、号は止斎といいます。若い頃から経学に詳しく、文章家としても知られていました。乾道年間に進士となり、起居舎人、中書舎人兼侍読を経て、宝謨閣待制に進んでいます。

著書としては『左氏章旨』、『詩解詁』などがあり、詩文集には『止斎文集』が存在します。永康・永嘉学派とも称される事功学派の代表的学者としても知られています。


陳亮(ちんりょう)

陳亮

陳亮(ちんりょう、1143年 – 1194年)は、南宋の学者・文学者で、浙江省永康県の出身です。彼の字(あざな)は同甫、また号は龍川と呼ばれました。

陳亮は若い頃から非常に才気にあふれ、筆を執れば短時間で数千言の文章を書き上げると言われています。特に彼の政治的な活動として有名なのは、宋と金との和議に反対し、国家の中興のための策を上奏したことです。しかし、その意見は採用されず、彼は長い間故郷で学問に専念しました。

1192年には、すでに退位していた太上皇孝宗と光宗の間の典礼問題での意見が光宗に大いに評価され、僉書建康府判官に任命されるも、職に就く前の1194年に急逝しました。彼の学問は経世済民を重視し、具体的な政策提案による国家の繁栄を主張する事功学派、あるいは永康学派の代表として知られます。朱熹とは学問上の論敵として知られる一方、私的には友情が続いていたとされます。

彼の著作としては『龍川文集』や『龍川詞』があり、日本でも長野豊山や佐藤一斎、西郷隆盛など多くの学者や文化人に評価されています。


通俗編(つうぞくへん)

『通俗篇』は、中国の通俗語を収録した辞書です。清の時代の学者、翟こう(てきこう、1736~88)によって著されたもので、38巻からなります。この辞書には、五千余の俗語、成語、諺が収められており、それらは天文、地理、時序、倫常などの38のカテゴリーに分類されています。

各語の意味は詳細に考証され、その語源も解読されています。特に、中世以降の戯曲や口語小説に使われる通俗語や方言が含まれている点がこの辞書の特色で、通俗文学の研究には非常に価値がある書物とされています。

また、同時代の学者である梁同書も似たような辞書の制作を計画していましたが、『通俗篇』を読んだ結果、その計画を変更しました。彼は『通俗篇』に収録されていない語や、異なる解釈の語を集めて『直語補証』という1巻の書を著しました。

北京商務印書館が1958年に出版した版では、『通俗篇』と『直語補証』が一緒になっており、索引もついているため、利用者にとって非常に便利です。


程頤(ていい)

程頤(1033年 – 1107年10月5日)は、中国北宋時代の儒学者。字は正叔。号は伊川。洛陽の人で、河南府伊陽県の出身です。兄の程顥とともに「二程子」と称され、二人は性理学の基礎を築きました。程頤は14歳頃から周敦頤に学び、後に胡安定の教えも受けました。彼は学問修養を通じて、誰でも聖人になれるという趣旨を性善説の立場から論じ、大学の教官に推薦されました。

彼の学問の特徴は理気二元論にあり、陰陽の二気を宇宙の原理や「道」として捉えるのではなく、「道」を陰陽の背後の原理とし、それぞれの事物の「理」として存在するとした。この思想は後の朱熹にも受け継がれ、朱子学の基盤となりました。

54歳の時、哲宗の講官(侍講)に就任しましたが、その厳格な性格から同僚との間に対立が生じ、特に蘇軾やその門下生との争いがありました。そのため、彼の晩年は不遇であり、涪州に左遷されるなどの経験をしました。

彼の主要な著作には『周易程氏伝』や『経説』があり、さらに兄との共著で「二程全書」も残されています。


帝王世紀(ていおうせいき)

『帝王世紀』は、西晋時代の著述家皇甫謐によって編纂された歴史書です。この書は、天地の開闢から魏の咸熙2年(265)までの272代、約276万745年にわたる歴史を、帝王を中心に記述しています。特に、三皇から漢・魏に至る帝王の事跡を詳細に記録しており、緯書の説を多用しているため、正史には見られない内容も含まれています。

元々は10巻から成る大作でしたが、時間とともに原本は散逸してしまい、現存していません。しかし、清の顧観光、宋翔鳳、銭保塘などの学者たちが、他の書籍からの引用を基に逸文を集めて再構築しました。また、現代には徐宗元による『帝王世紀輯存』というまとめ本も存在しています。

皇甫謐自身は、若い頃は放蕩の日々を過ごしていましたが、後に読書に熱中するようになり、多くの著作を手がけるようになりました。『帝王世紀』以外にも多数の著述がありましたが、大半は現在まで残っていません。


鄭谷(ていこく)

鄭谷は、中国晩唐の詩人で、宜春(江西省)出身です。彼の字は守愚。幼少時からの才能は非凡で、7歳のときに詩を作ったとされています。司空図にその文才を認められ、光啓3年(887)には進士に及第。その後、官位は都官郎中にまで昇進し、鄭都官とも称されました。

彼の詩風は清婉明白と評され、特に〈鷓鴣詩〉は広く愛され、「鄭鷓鴣」という別名で知られるほどの人気を博しました。彼は僖宗に従い華山を登り、雲台の道観で編集した詩集《雲台編》3巻が最も有名です。この他にも《宜陽集》という3巻の著作が存在したものの、残念ながら散逸してしまいました。


丁鶴年

丁鶴年(1335-1424)は、元末から明初にかけての詩人です。彼は色目人の出身で、曽祖父は元の世祖(フビライ)の征西を支援した著名な貿易商人でした。武昌では、若い頃から文章家として名を馳せていました。しかし、方国珍や紅巾軍の乱に巻き込まれ、彼の色目の出身を理由に、義母とともに逃亡する生活を余儀なくされました。


帝範(ていはん)

『帝範』は、中国の政治書で、4巻12編から成り立っています。唐の太宗が撰述し、648年に完成しました。この書は、帝王としての模範的な行動や考え方を示す内容で、太宗の子である後の高宗へ与えられました。「貞観政要」とともに、帝王学の教科書として広く知られています。


輟耕録(てっこうろく)

『輟耕録』は、元末の随筆で、陶宗儀が著した30巻からなる作品です。正式には『南村輟耕録』と呼ばれ、元代のさまざまな事柄、特に政治、制度、風俗、文化などに関する詳細な記述が含まれています。この名前は、元末の戦乱を避けて隠棲生活を送った陶宗儀が、農耕を中断して(輟耕)文章を書き、壺に収めて木の根元に埋めたことに由来しています。

10年の間に記されたこれらのメモは、後に30巻の書物としてまとめられました。巻の中には蒙古や色目人に関する詳しい記述や、当時の通俗文学、戯曲、小説、書画などの内容も含まれており、元代社会の貴重な資料として知られています。


伝習録(でんしゅうろく)

王陽明

『伝習録』(でんしゅうろく)は、明の時代の思想家、王陽明の思想を集約した基本文献です。陽明自身が著述したものは少なく、本書は彼の言行や手紙を弟子たちが集めて3巻にまとめました。この名は『論語』の「伝不習乎」から名付けられました。

最初の部分、上巻の初頭の十四条は徐愛によって筆録され、陽明47歳の1518年に薛侃によって刊行されました。中巻は陽明53歳の1524年に、南元善によって刊行され、下巻は陽明の死後28年後の1556年に銭徳洪が編纂・刊行しました。そのため、上巻には40歳前後の言葉が多く収録され、中・下巻には50歳以降の晩年の言葉が中心となっています。陽明の思想は、特に50歳頃に大成しました。

日本には1614年に伝わり、大塩平八郎や西郷隆盛、植木枝盛など多くの思想家に影響を与えました。江戸時代を通じて、各地の儒学塾での教材としても使われ、特に豊後日田の咸宜園では、朱子学の『近思録』と並んで学業の最後のテキストとして用いられました。


竇娥冤(とうがえん)

出典:wiki

竇娥冤(とうがえん)は、元代の中国の戯曲で、関漢卿によって作られました。この作品は元曲の中でも最大の悲劇と評価されており、関漢卿の代表作として知られています。

物語の内容として、主人公の竇娥は若くして未亡人となり、姑と共に暮らしていました。しかし、ごろつきの張驢児に結婚を迫られるも拒否すると、彼は蔡後家を毒殺し、その罪を竇娥になすりつけます。竇娥は、自らの冤罪を訴えながらも、姑を守るために自らが罪を認め、処刑されることとなります。彼女は、もし自分が冤罪ならば夏に雪が降り、自らの血が旗に飛び移るという現象が起こるだろうと宣言し、その言葉通りの奇跡が現実となりました。

その後、この事件の地に竇娥の父が公僚として赴任します。竇娥は亡霊として父の夢枕に現れ、真実を訴えるのでありました。この訴えを受けて、事件は再審され、真犯人が処刑されることとなりました。

この作品は、元曲の中でも優れた作品として認識されており、時代や文化を超えて様々な作品に影響を与えています。特に、社会の暗黒面を真正面から描き出した作品として、後世にも多大な影響を与えました。


東観漢紀(とうかんかんき)

『東観漢紀(とうかんかんき)』は、後漢時代の班固や劉珍などが勅命によって執筆した歴史書です。後漢の光武帝から霊帝までの時代を、紀伝体という形式で詳しく記述しています。この書は後漢末に完成し、後漢の歴史を知るための重要な資料となっています。


唐詩紀事(とうしきじ)

『唐詩紀事(とうしきじ)』は、中国唐代の詩人とその詩、詩に関連する話、小伝、評論などを集めた書物です。宋の計有功(けいゆうこう)が編纂し、全81巻からなります。

収録されている詩人は1150人に及び、内容は非常に幅広い範囲をカバーしています。この書物により、多くの詩人とその作品が後世に伝えられ、唐詩研究において重要な資料となっています。

また、元の辛文房(しんぶんぼう)が編纂した『唐才子伝』は、この書物からの多くの情報を使用しています。テキストとしては、南宋の王禧(おうき)本(1224年)が最も古く、明時代には洪楩(こうべん)本や張子立(ちょうしりつ)本などが存在します。


唐書(とうじょ)

『唐書(とうじょ)』は、中国唐代の正史で、『旧唐書』と『新唐書』の2種類が存在します。

『旧唐書』は、五代後晋の劉昫(りゅうく)らにより945年に編纂され、全200巻から成ります。内容としては、唐滅亡直後の史料不足から後半部が不完全である一方、多くの原史料がほぼそのまま残されており、史料的価値が高いです。

『新唐書』は、北宋の欧陽修(おうようしゅう)らが1060年に編纂し、全225巻から構成されています。こちらは、新たに入手した史料を多く取り入れており、『旧唐書』の不足部分を補完しています。特に表が多く、宰相世系表や兵志、選挙志などが初めて設けられました。文章は古文を用いた簡潔な記述が特徴で、多くの学者から重んじられてきましたが、史料の原文を変えすぎたり、文章が簡略過ぎる部分もあるため、『旧唐書』に比べて史料的価値はやや劣るとされています。

近代には『新唐書』が広く用いられてきた一方で『旧唐書』はやや忘れられがちでしたが、実際には両書とも一長一短があり、併用することが理想的です。また、両書を比較・研究した文献として、清代の沈炳震の『新旧唐書合鈔』や趙紹祖の『新旧唐書互証』などがあります。


陶潜(とうせん)

陶潜(とうせん)は、365頃から427年にかけての東晋の詩人で、潯陽柴桑(江西省九江市)出身。字は淵明(えんめい)といい、一説には名を淵明、字を元亮とする。彼は東晋の大将軍、陶侃の曾孫として生まれたが、その時代には家族は没落し、若い頃に官職に就いたものの、官途の束縛や官界の汚濁を厭って、41歳で彭沢県の県令を最後に官界を退きました。その後は郷里の農村や廬山で、田園の自然を愛しながら酒を楽しむ生活を送りました。

陶潜は、隠士のような生活を背景に、飾らず深い思索が詰まった詩を残しました。特に自然との共生や理想の生活を描いた作品が多く、彼の詩は後の世に大きな影響を与えました。彼は自然詩人の先駆として知られ、特に《帰去来兮辞》や《桃花源記》などの作品は広く知られています。彼の作品は《陶淵明集》として5巻にまとめられています。後世では六朝時代の第1の詩人として評価されています。


東坡禅喜集(とうばぜんきしゅう)

「東坡禅喜集」とは、蘇東坡(1036-1101)に関連する禅の詩文、逸話、および仏印禅師(?-1098)との問答を収めた文献です。この文献は徐長孺によって編纂されました。その冒頭には、1590年の序文や陸樹声の題が記されており、最後には心空居士唐文献による跋文が添えられています。なお、「四庫提要」の情報によれば、1603年に凌濛がこの集を増補・改訂し、十四巻にまとめたバージョンも存在するようです。

蘇東坡は、本名を軾といい、子瞻という字を持ちます。眉山居士という号を持ち、彼は長公や大蘇とも呼ばれています。唐宋時代の八大家の一人として知られる彼は、特に禅に深い親しみを持ち、五祖師戒の後継者とも考えられていました。

仏印禅師の実名は了元で、覚老という字を持ちます。仏印という名前は神宗から賜りました。彼は雲門宗の五世代目に位置付けられる禅師です。


東方朔(とうほうさく)

東方朔・『晩笑堂竹荘畫傳』より

東方朔(とうぼう さく、紀元前154年 – 紀元前93年)は、前漢の武帝時代の政治家・文人で、平原郡厭次県(現在の山東省浜州市恵民県)出身。字は曼倩。彼は自らの推薦状を武帝に送り、気に入られた結果、常侍郎や太中大夫といった要職に就きました。彼は博学多識で文章に優れ、ユーモアや機知に富んでおり、武帝の話し相手として度々側近に仕えました。しかし、その滑稽な言動から武帝には滑稽の士とみられ、政治の面での信任は得られていませんでした。

東方朔『能楽図絵』

彼の逸話としては、西王母の植えた仙桃を盗んで食べ、仙人として八千年の長寿を得たという伝説や、各種の怪現象や珍しい動物に関する知識を駆使したエピソードなどが知られています。唐代の詩人李白は彼のことを高く評価し、彼の行為や言動は後世、中国の話芸や相声などのジャンルで神様のように尊敬されるようになりました。

著書としては「答客難」や「神異経」などがあり、彼に関する詳しい記述は『史記』の「滑稽列伝」にも見られます。また、日本の能の演目にも「東方朔」という作品が存在し、そこでは彼は仙人として登場します。彼の生涯や逸話は、多くの文献や伝説で語り継がれています。


唐律疏議(とうりつそぎ)

『唐律疏議』(とうりつそぎ)は、中国・唐代の刑法典「律」と、その公式の注釈書「律疏」を組み合わせたものです。この文献は、唐の高宗時代の永徽4年(653年)に編纂され、特に開元25年の律疏(737年)を主な内容としています。

唐の高宗は、公式の注釈が存在せず、毎年の科挙の基準も定まっていないという現状を指摘。それを受けて、長孫無忌、李勣ら19人の学者によって編纂が行われました。この成果として、衛禁・職制・戸婚・厩庫・擅興・賊盗・闘訟・詐偽・雑律・捕亡・断獄の12篇、502条から成る『永徽律疏』が完成しました。

『唐律疏議』は、唐代を通じて変更されることなく保持され、その影響力は宋、明、清の法典成立にも及びました。更に、日本、朝鮮、ベトナムの律令体制確立にも大きな影響を与えました。元代に入ると、唐律は公式には廃止されましたが、参考文献としての価値が高まり、多くのバージョンが作成され、『故唐律疏議』または『唐律疏議』として広く読まれるようになりました。これにより、唐律は現代まで伝えられることとなりました。


読史管見(とくしかんけん)

『読史管見』は、南宋時代の儒学者、胡寅(こいん)によって編纂された書物です。このタイトルは「歴史を読んでの私見」という意味を持ち、胡寅自身の歴史解釈や考察がまとめられています。


独断(どくだん)

蔡邕(さいよう)は中国後漢の文人・学者で、字(あざな)は伯喈(はくかい)。河南省の陳留出身で、彼は天文や音楽など多岐にわたる学問に精通しており、文章の才能に加えて琴の名手としても知られていました。霊帝の治世下で公職に就き、書物の校訂を行うなどの業績を残しました。

特筆すべきは、175年に馬日磾らとともに六経の文字を校定し、これを石に刻んで太学の門外に立てたこと。この成果は「熹平石経」として後世に知られることとなりました。しかし、後に董卓に仕官するものの、董卓の死に関連して獄中で命を失いました。彼の著書として『独断』や『蔡中郎集』があります。

『独断』は、専断や勝手に決めるという意味で、史記の李斯伝にも引用されています。その中では、王が長く位に就くための策略として独断的に事を運ぶことが、必要とされています。


杜甫(とほ)

杜甫・『晩笑堂竹荘畫傳』より

杜甫(とほ、712年 – 770年)は、中国盛唐時代の著名な詩人で、字は子美、号は少陵。彼は河南府鞏県(現在の河南省鄭州市鞏義市)出身で、代々地方官を務めた家系に生まれました。杜甫の家系には、三国時代から西晋の武将である杜預や初唐の詩人である祖父の杜審言など、数々の著名な人物がいます。

若い頃に科挙試験に落第し、多くの地を放浪した彼は、李白や高適との詩酒の交わりを結びました。長安へと進出しましたが、高い官職には就けず、安禄山の乱の時には賊軍に捕らえられました。この乱の体験は彼の詩に悲壮な影を投げかけ、乱後は官職を辞して四川の成都に落ちのび、節度使厳武からの官職を受けつつ浣花渓に草堂を建てて生活しました。

杜甫の像

彼の詩は、人間の生き様や時代の変遷を繊細に表現しており、李白と並び称され「李杜」として語り継がれています。杜甫は「詩聖」としての称号を持ち、彼の作品は中国文学史上でも最高峰とされ、日常の生活や戦争、農民や兵士の苦悩など多岐にわたるテーマで詠まれました。彼の詩は、後世の中国や日本の詩にも大きな影響を与えました。代表作には『北征』『三吏三別』『兵車行』などがあります。


杜荀鶴(とじゅんかく)

杜荀鶴(とじゅんかく、846年 – 904年?)は、中国晩唐の詩人で、字は彦之(げんし)、九華山人と号します。池州石埭県(現在の安徽省)の出身で、本貫は京兆郡杜陵県。彼は杜牧の末子ともされます。大順2年(891年)に進士として合格しました。朱全忠に認められ、彼のもとで翰林学士や主客員外郎、知制誥の役職を務めました。

杜荀鶴は、琴詩に秀でた風流人として知られていましたが、権力に驕っており、他人から憎まれることも多かったと言われています。人を殺そうとしていた、あるいは殺されそうになっていた時に病気で亡くなったとの説もあります。

彼の詩は、社会詩として唐末の動乱による人民の苦しみを写実的に捉えているため、現代の中国でも高く評価されています。詩集には『唐風集』があります。また、心頭を滅却すれば火も涼しという詩は、快川紹喜の辞世の偈としても知られています。


杜牧(とぼく)

杜牧・『晩笑堂竹荘畫傳』より

杜牧(とぼく、803年 – 853年)は、中国晩唐の詩人として知られ、京兆郡杜陵県の出身です。彼の字は牧之(ぼくし)で、樊川とも号しました。杜甫と区別して小杜と呼ばれ、李商隠と共に「晩唐の李杜」と称されました。彼の詩は平明で豪放なものであり、特に七言絶句において優れた作品を残しています。艶麗と剛健の両面を持つ詩風とともに、李白や韓愈、柳宗元からの影響も見受けられます。

杜牧は長安の名門に生まれ、25歳で進士となり、官職を歴任しました。彼の経歴は数多くの政変や転任によって築かれ、中央での出世は得られませんでした。特に揚州での時期には、詩作を開始し、風流の日々を送ったとされます。

彼は文学家としての真面目さを持ち、兵法の書『孫子』に注釈を施すなど、学問にも造詣が深かったです。『樊川詩集』や「阿房宮賦」など、多くの作品を残しています。

政治的な識見も持ち合わせており、時代の奢侈や衰退に対する嘆きや非難を詩に綴りました。彼の生涯は苦悩と挫折も多かったが、それにも関わらず、後世に数多くの名作を残すこととなりました。


杜預(とよ)

杜預

杜預(どよ、または「とよ」とも読む、222年 – 284年)は、中国の西晋時代の学者、政治家、武将であり、京兆尹杜陵県(現在の陝西省西安市雁塔区)の出身。字は元凱。彼の祖父は杜畿、父は杜恕であり、杜預の末裔には詩聖杜甫や杜牧がいる。

若い頃、父が岳父の司馬懿との対立から不遇の死を遂げた影響で、杜預も長らく不遇を味わっていた。しかし、義兄の司馬昭が司馬家の当主となると、杜預は昇進し、尚書郎となった後、蜀漢攻略や呉の平定などの軍事活動にも従事。これらの功績により、鎮南大将軍や河南尹、秦州刺史などを歴任し、当陽県侯に封じられた。

学者としての彼の業績は特に注目される。彼は『春秋経伝集解』を著し、従来別々であった『春秋』の経文と『左氏伝』を一冊にまとめ、経文に対応する形で『左氏伝』を整理。さらに『春秋釈例』では、『春秋』の義例を詳しく解説し、土地名や系譜、暦日などを考証・図解。これらの著作により、杜預は春秋学の中で『左氏伝』の位置を確立した。

彼の人生を通じての主張として「徳は企及を以てすべからず、功を立て言を立つが庶幾(ちか)きなり」というものがあった。彼の業績は、中国の歴史や学問において、高く評価されている。


杜陽雑編(とようざつべん)

『杜陽雑編(とようざつべん)』は、中国唐代の876年に出版された伝奇集です。この作品は特筆すべき点として、日本人が初めて海外の文芸作品に登場することとなったものです。



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