「さ行」四字熟語の典拠・出典
「さ」四字熟語の典拠・出典 | ||
歳時広記 | 斎藤拙堂 | 西遊記 |
左思 | 薩都剌 | 三慧経 |
三国志 | 三国志演義 | 参同契 |
三略 | 三論玄義 | |
「し」四字熟語の典拠・出典 | ||
爾雅 | 止観大意 | 史記 |
詩経 | 資治通鑑 | 児女英雄伝 |
四書集注 | 詩藪 | 詩品 |
釈月性 | 拾遺記 | 周書 |
周敦頤 | 十八史略 | 周亮工 |
朱熹 | 朱子語類 | 朱震亨 |
周礼 | 荀子 | 春秋公羊伝 |
春秋穀梁伝 | 春秋左氏伝 | 春秋繁露 |
春渚紀聞 | 遵生八牋 | 長阿含経 |
小学 | 貞観政要 | 宵光剣伝奇 |
蕭統 | 正法眼蔵 | 正法眼蔵随聞記 |
諸葛亮 | 書経 | 蜀志 |
続日本紀 | 書言故事 | 新五代史 |
成唯識論 | 徐積 | 徐陵 |
詩話総亀 | 新楽府 | 申鑒 |
新語 | 新五代史 | 清史稿 |
晋書 | 岑参 | 沈佺期 |
神仙伝 | 真宗 | 新唐書 |
沈約 | ||
「す」四字熟語の典拠・出典 | ||
水滸伝 | 隋書 | 水経 |
水経注 | 菅原道真 | |
「せ」四字熟語の典拠・出典 | ||
説苑 | 西京雑記 | 醒世恒言 |
西廂記 | 石林詩話 | 世説新語 |
世説新語補 | 説郛 | 説文解字 |
山海経 | 銭起 | 戦国策 |
禅源諸詮集都序 | 宣宗 | 宣和画譜 |
潜夫論 | ||
「そ」四字熟語の典拠・出典 | ||
雑阿含経 | 曾鞏 | 宋史 |
宋子 | 荘子 | 宋之問 |
宋書 | 曹松 | 曹植 |
捜神記 | 曹操 | 荘南傑 |
宋濂 | 滄浪詩話 | 続高僧伝 |
続幽怪録 | 楚辞 | 蘇洵 |
素書 | 蘇軾 | 祖庭事苑 |
蘇轍 | 蘇武集 | 孫子 |
孫綽 |
歳時広記(さいじこうき)
- 「歳時広記」が出典の四字熟語一覧
斎藤拙堂/斎藤正謙(さいとうせつどう)
出典:wiki(四天王寺の墓)
斎藤拙堂(1797年-1865年)は、江戸後期の著名な朱子学者でした。本名は正謙、字(あざな)は有終、そして拙堂や鉄研学人といった号も持ち、通称としては徳蔵を名乗りました。
伊勢国津藩士の子として江戸で生まれ、昌平黌で古賀精里の下で学びました。
彼は若いころから才気あふれる人物として知られ、24歳で藩校有造館の創設に関与しました。後に藩主藤堂高猷の侍講となり、郡奉行として地方の不正を取り締まったり、藩校の督学として学制の改革や洋学の導入、文庫の増設など、教育の発展に尽力しました。
拙堂は、西洋の学問や兵術にも興味を持ち、和洋折衷の精神で新しい知識を受け入れ、藩の改革にも深く関与しました。
拙堂の学問の幅は広く、とりわけ漢文に優れており、多くの著書を遺しています。『士道要論』では武士のあり方を、『海外異伝』や『海防策』では対外政策を論じました。
彼の紀行文としての『月瀬記勝』は、頼山陽の『耶馬渓図巻記』と並ぶ名作とされています。
その後、幕府から儒官への登用を打診されましたが、彼はそれを辞退。晩年は致仕し、1865年に69歳で亡くなりました。死後、1924年に正五位を追贈されています。
西遊記(さいゆうき)
『西遊記』は、中国の明時代に大成した白話小説で、中国四大奇書の一つに数えられます。この作品は、唐の時代の高僧、玄奘三蔵の実際の旅を元に、道教や仏教の天界、仙界、そして様々な神や妖怪が織り交ぜられた物語として展開されています。
玄奘三蔵は、三神仙、すなわち孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供にして、多くの苦難を乗り越えながら天竺を目指し、仏教の経典を取りに行くという物語が描かれています。
物語の中には実在の人物、例えば玄奘三蔵や唐の太宗皇帝などが登場しますが、その内容は完全にフィクションとして描かれており、史実とは異なります。映像化や舞台化の際には、三蔵法師役に女性がキャスティングされることも日本では珍しくありません。
著者については、呉承恩とされていますが、これには異説も存在し、明確な結論は出ていません。
『西遊記』の人気を受けて、『東遊記』『南遊記』『北遊記』といった作品も生まれ、これらは合わせて『四遊記』と称されることがあります。
出典:京劇の『西遊記』
この物語は、孫悟空の力強くも痛快な活躍を中心に、彼らの旅と冒険を描いており、古くから多くの愛読者に支持されています。日本でも、江戸時代から紹介され、今日まで愛読され続けています。
左思(さし)
左 思(さ し、約250年頃 – 305年頃)は、中国西晋の詩人で、字は太沖。山東省の臨淄県出身。家柄は貧しく、官途に恵まれなかったものの、その文学の才能は非凡であった。
特に代表作「三都賦」は、魏、呉、蜀の三国時代の首都を題材としており、10年の歳月をかけて執筆した。この作品は、当時の文壇の大御所、張華や陸機からも高く評価され、洛陽で人々に熱烈に筆写されるほどでした。
これにより「洛陽の紙価を高からしめる」という故事が生まれました。
妹の左棻は西晋の武帝司馬炎の妃として後宮に入り、これがきっかけで左 思も洛陽に居を構えました。しかし、彼の人生には波乱もあり、八王の乱の際には、彼のパトロンであった賈謐が処刑されたため、官を辞して隠棲。
その後も河間王司馬顒の将軍による洛陽の混乱を避けて冀州に避難し、数年後に病死しました。
その他の代表的な作品としては、「詠史詩」や「招隠詩」があり、これらも左 思の詩の才能を証明するものとなっています。彼の詩は、現実主義的で力強く、太康期を代表する詩人の一人と評されています。
薩都剌(さっとら)
薩都剌(さっとら、1308年? – ?)は、中国元代の詩人・画家・書家です。字は天錫、号は直斎。彼はイスラム教徒家庭の出身で、答失蛮(タシマン)という階層に属していましたが、祖父の代からモンゴルに軍人として仕え、中国に移住しました。
彼の父、阿魯赤(アルチ)はクビライに仕え、山西道雁門の守備隊長として活躍していました。薩都剌自身は雁門で生まれ、幼少時から漢文化に親しむ環境で育ちました。
1327年に科挙試験に合格し、進士の地位を得るも、貴族の家系ではなかったため高い地位には昇らず、地方官を歴任しました。官界での活動を終えた後、江南の杭州に隠棲しました。
彼の詩集『雁門集』は、元詩の特徴である清新かつ流麗な詩風を持ち、理知的な宋詩から距離を置き、抒情的で唐詩の影響を受けた作品として知られています。
また、詞曲や書画も得意としました。薩都剌の作品は、明代以降広まり、文豪魯迅も彼のファンであり、日本においても南北朝時代から尊重されて読まれてきました。彼の業績は『新元史』にも記されています。
三慧経(さんえきょう)
大品経の三慧品
三国志(さんごくし)
『三国志』は、中国の後漢末期から三国時代に渡る約100年の興亡史で、三国(蜀・魏・呉)の争覇を描いています。この歴史書は陳寿(233年 – 297年)によって撰され、全65巻からなる。
具体的には、魏書が30巻、蜀書が15巻、呉書が20巻となっており、特に魏を正統として扱っています。
元々は陳寿の私撰として書かれたもので、正統論が盛んになる中でのその立ち位置から、後世で非難の対象ともなりました。
しかし、この書の資料批判は厳密であり、三国それぞれに対して公平な記述がされているため、正史の中でも評価が高いものとされています。
また、南朝宋の裴松之が注釈を施し、多くの散逸した書籍の情報を集めた注が加えられています。特に、魏志の中にある「倭人伝」は、日本に関する最古の記録として知られています。
対照的に、『三国志演義』は明代に成立した歴史小説で、陳寿の『三国志』を元にしており、その中で蜀漢を正統として扱っています。
『三国志演義』は、史実と小説が組み合わされており、その物語の魅力や表現技巧が評価されています。
要するに、『三国志』は三国時代の実際の歴史を扱った正史、一方『三国志演義』はその歴史をもとにした歴史小説であり、両者は異なるジャンルの作品として理解すべきです。
三国志演義(さんごくしえんぎ)
『三国志演義』(さんごくしえんぎ)は、中国の明代に書かれた長編の白話小説です。後漢末及び魏・蜀・呉の三国時代を背景にした時代小説であり、四大奇書の一つに数えられます。
書名は清代以前は『三国志演義』や『三国演義』と様々に呼ばれていましたが、現在の中国では『三国演義』という名称が一般的です。
日本では『三国志』や『三国志演義』として知られ、横山光輝の漫画なども『三国志』という名称で刊行されています。
著者については定説がなく、施耐庵や羅貫中の作とされています。物語の中では、劉備と蜀漢を善玉、曹操と魏を悪役とする形で描かれています。
このイメージは、北宋の時代に既に存在し、「説三分」と呼ばれる講談として人気を集めていました。元代にはこの物語の原型となる『全相三国志平話』が刊行されていました。
『三国志演義』は、これらの伝承や説話をもとに、正史として知られる陳寿の『三国志』を参考にしつつ、物語性豊かな小説として成立しました。
劉備と曹操の対立を中心に、逸話や歴史的な出来事が巧みに組み込まれています。物語は黄巾の乱から呉の滅亡までの出来事を網羅しており、書かれている内容は歴史的な事実に基づいている部分も多いです。
しかし、物語としての面白さや人物の感情の描写も豊富で、読者の心を捉える要素が満載です。
『三国志演義』は、史実と俗伝の中間に位置する作品として、大衆の好みに合わせつつも、歴史的な背景を尊重した内容となっています。
このバランスが、多くの読者から愛される要因となっています。また、文章は白話(口語)で書かれているものの、非常に洗練されており、知識人からも高く評価されていました。
中国では、この作品は非常に人気があり、吉川幸次郎も「『三国志演義』は明・清の中国において、もっとも広く読まれた書物だろう」と推測していました。
日本においても、『三国志演義』は非常に人気があり、様々な翻訳や翻案が存在します。特に、吉川英治の小説や横山光輝の漫画は、多くの日本人に三国時代の物語を伝える手段となっています。
総じて、『三国志演義』は、歴史的な背景と物語性を組み合わせた傑作として、中国だけでなく、日本をはじめとした多くの国で読まれ続けている作品です。
参同契(さんどうかい)
参同契(さんどうかい)は、中国唐代の禅僧・石頭希遷によって著された禅の詩で、五言×44句、合計220字から成り立っています。
各2句、4句ごとに韻を踏んでおり、詩の名前「参同契」は「現象」と「平等」が「一致」しているという意味を持ちます。
曹洞宗では、毎朝の仏祖諷経の際に『宝鏡三昧』と交互に読誦されます。この詩は、当時対立していた禅宗の南派と北派の融和を目指して作成されたと言われています。
三略(さんりゃく)
『三略』(さんりゃく)は、中国の古代兵法書で、「武経七書」の一つに数えられます。この書は上略、中略、下略の3部から成り立っており、それが「三略」という名前の由来となっています。
伝承によれば、太公望が執筆し、神仙の黄石公が選録したとされますが、内容には後世の事物や言葉の言及が見られるため、実際には後の時代に太公望や黄石公の名を借りて書かれた偽書とも考えられています。
『三略』の中には、有名な成句「柔能く剛を制す」が含まれており、その他にも「智を使い、勇を使い、貪を使い、愚を使う」という指導者としての智慧に関する言葉があります。
具体的な内容として、上略では人材の重要性や政治の基本について、中略では策略の必要性や組織の統制術、下略では国を治める要点や臣下の使い方などが述べられています。
日本においても、『三略』は古くから評価されており、戦国武将の北条早雲はこの書の一節を聞いただけで学び足りると感じ、学者の講義を中止させたとの逸話が伝わっています。
三論玄義(さんろんげんぎ)
『三論玄義』(さんろんげんぎ)は、中国隋代の仏書で、嘉祥大師吉蔵が著したものです。この書は、吉蔵が揚州(江蘇省)慧日道場に滞在中の597~599年頃に執筆されました。
「三論」とは、インドの龍樹の『中論』『十二門論』とその弟子、提婆の『百論』を指し、これに龍樹の『大智度論』を加えると「四論」とも言います。
これらの論書は、『般若経』の「空」を主題として論じたもので、401年に中国の長安に来た鳩摩羅什によって漢訳されました。これらの教義に基づく学派を三論宗と称します。
『三論玄義』は、三論の奥深い教義とその大綱を明瞭に説明した綱要書として知られています。具体的には、破邪・顕正、無得の正観、諸法の実相、そして中道を中心とする教えが説かれており、仏教史上の重要な史料となっています。
また、この書は空観哲学の入門書としての評価も高いです。
爾雅(じが)
『爾雅』(じが)は、中国最古の字書であり、類語辞典・語釈辞典・訓詁学の書として知られています。著者は不明ですが、春秋戦国時代以降の古典の語義解釈が、秦や漢初の学者によって整理補充されたものと考えられており、おそくとも前漢の武帝の時代(前140~前87年)には存在していたとされます。
本書は、一種の意味別語彙集、類義語字典として構成されており、現行本は19篇から成り立っています。巻頭3篇は同義語を分類したもので、以後の篇では、事物の名前や語義を詳しく解説しています。
特に「釈畜」篇では、馬や牛の毛色に基づく品種分類が述べられており、当時の畜産技術の水準を知ることができます。
書名の「爾雅」は「雅(タダ)シキニ爾(チカ)ヅク」と読まれ、この書を通して古典を正しく読解することができる、という意味が込められています。
時代が経つにつれ、『爾雅』は儒学の経典としての位置を確立し、唐や宋以後は十三経の一つとして扱われました。特に、晋の学者郭璞の注釈は有名で、多くの学者や研究者に参照されてきました。
総じて、『爾雅』は中国の字書や辞典の歴史において、非常に重要な位置を占めている書物であり、その価値は古今東西を問わず認められています。
史記(しき)
『史記』は、中国前漢の歴史家、司馬遷によって編纂された歴史書であり、二十四史の中の最初のものとして位置づけられています。原名は『太史公書』でしたが、後世、『史記』と呼ばれるようになり、これが一般的な名称として確立しました。
この書は、上古の黄帝から前漢の武帝の時代に至るおよそ二千数百年の歴史を総括するもので、本紀、表、書、世家、列伝という五つの部分に分けられています。
具体的には、歴代王朝の編年史である本紀12巻、年表10巻、文化史を扱う書8巻、列国の歴史をまとめた世家30巻、そして個人の伝記を収めた列伝70巻から成り立っています。
司馬遷の家系は、代々、歴史記録の保管や整備に従事する「太史公」という役職を担っていました。
司馬遷の父、司馬談も史官として活動しており、自らの著書の計画を持っていましたが、途中で亡くなり、その遺志を継いだのが司馬遷でした。司馬遷は、父の遺言を受け、多くの史料や書物を参考にして『史記』の執筆を始めました。
しかし、友人の李陵の事件に関わり、宮刑に処せられるという屈辱的な経験もしました。それにも関わらず、彼は執筆を続け、前91年ごろには草稿を完成させました。
『史記』の特徴として、それまでの専門的な学派や文献から独立した立場で、古代から漢までの歴史を総合的に記述したことが挙げられます。
司馬遷の創始したこの総合的な歴史記述の形式は「紀伝体」と呼ばれ、後世の歴史書の標準となりました。そのため、彼は中国最初の歴史学者として、また中国歴史家の父と称されています。文学的価値も高く、日本でも古くから読まれ、元号の出典としても12回採用されています。
詩経(しきょう)
『詩経』(しきょう、拼音: Shījīng)は、中国最古の詩集として知られ、全305篇から成ります。この詩集は前9世紀から前7世紀にかけての期間に、多岐にわたる作者たちによって書かれました。
具体的には、西周の初期(紀元前11世紀)から東周の初期(紀元前7世紀)にかけての詩が収録されており、周の東遷前後のものが多く含まれています。作者は男女を問わず、農民から貴族、兵士、猟師といった多様な背景を持つ人々とされています。
内容としては、『詩経』は「風」「雅」「頌」の3つの部分に大別されています。
- 「風」は15の「国風」に分かれ、黄河沿いの国々の民謡が中心です。
- 「雅」は「大雅」と「小雅」に分けられ、周の朝廷の宴会で歌われたものや建国伝説を詠んだ長編叙事詩などが含まれます。
- 「頌」は「周頌」「魯頌」「商頌」に分かれ、祖先の廟前で奏せられた神楽とされる詩篇が収められています。
詩の基本的な形式は4言で1句、4句で1章となっており、これが古代音韻研究の端緒ともなったとされます。
伝統的な説としては、孔子が門人の教育のために編纂したと言われていますが、この点については確定的な証拠は存在しません。また、毛氏の伝えたテキスト・解釈が盛行した結果、『詩経』は「毛詩」とも呼ばれるようになりました。
中国の歴史の中で、『詩経』は儒教の経典として絶大な権威を持ち、士大夫層の基本的な教養として長らく学ばれてきました。その成立や背景には複数の学説や見解が存在し、全ての事柄について明確な定論は存在しません。
資治通鑑(しじつがん)
『資治通鑑』は、中国北宋時代の司馬光によって編纂された編年体の歴史書で、全294巻からなります。編集は1065年(治平2年)に開始され、1084年(元豊7年)に完成しました。もともとは『通志』という名で呼ばれていましたが、神宗帝により『資治通鑑』という名が賜わりました。
この歴史書は、紀元前403年の戦国時代の始まりから959年の北宋建国の前年まで、1362年間の史実を包括しています。
資料選択の正確さや史料的価値、さらには文体の優れた叙述から、中国史の中で非常に高い評価を受けています。特に、既に散逸してしまった史料が多数収録されていることから、重要な参照文献として現代でも利用されています。
編纂の過程では、322種に及ぶ多様な資料を基に、厳密な考証が行われました。隋、唐、五代の時代に関しては、それらの時代の正史と同じくらいの史料的価値があるとされます。
編纂の方法としては、まず全ての資料を年月日ごとに整理し、一つの大きな資料集を作成。
その後、司馬光が実際の治世に役立つものだけを選び取り、『資治通鑑』としてまとめ上げました。
この書の特徴として、伝統的な紀伝体ではなく、編年体を採用している点が挙げられます。この選択は、古代の儒学経典『春秋』に倣ったもので、その影響を色濃く受けています。
さらに、考証や注釈のための追加文献として、『通鑑考異』や『通鑑目録』も用意されています。
児女英雄伝(じじょえいゆうでん)
『児女英雄伝』は、中国清代に文康によって書かれた口語章回小説で、全40回から構成されます。この作品は道光年間(1821~50)に成立し、清末期の大衆文学である武侠小説の一つです。
物語の大筋としては、安公子が罪に陥れられた父の救出のために冒険し、途中で強盗から命の危機に陥るも、女侠として知られる十三妹(実名は何玉鳳)に救われます。
後に、安公子は父を救出し、十三妹ともう一人の女性、張金鳳と結婚します。物語は、家族の絆や孝養の精神、さらには安公子の立身出世の道を中心に進行します。
作者文康自身は満州八旗の家系であり、初めは裕福だったものの、後に貧困に陥りました。この作品は彼の晩年に書かれ、初めは写本として広まりましたが、1878年に木活字版として出版されました。
作品は『紅楼夢』に強く影響を受けており、理想的な家庭の姿を描くことを目指しています。
特に、生き生きとしたユーモラスな言い回しが特徴で、当時の北京語で書かれているものの、講釈師の口調を模しているため、やや文語的な表現が使用されています。
ヒロインの十三妹は、武侠小説における戦う女性の代表として知られ、彼女の活躍や豪傑ぶりが作中で描かれています。
その背景には、唐代伝奇のキャラクターや他の武侠小説のヒロインが参考とされています。
この物語は、日本でも武田泰淳の『十三妹』などに影響を与え、中国や台湾、香港では映画やドラマ、京劇などの演目としても人気があります。
四書集注(ししょしっちゅう)
『四書集注』(ししょしっちゅう)は、南宋の儒学者、朱熹(しゅき)による『四書』の注釈書であり、『大学章句』『中庸章句』『論語集注』『孟子集注』の4編から成あります。
朱熹は孔子から孟子へと続く道を重視し、「四書」(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)それぞれに注釈を施しました。
この著作は、宋代の学者の注釈を参考にしつつ、朱熹独自の世界観に基づいて新たな解釈を加えています。
元代には朱子学が国教として採用され、朝鮮、ベトナム、日本を含む東アジア諸国で広く受容されました。
しかし、元朝での科挙採用は、朱子学の形骸化の原因とも指摘されています。『四書集注』は、朱子学の核心文献として尊重され、宋代以降の中国近世社会で最も広く読まれた書とされています。
詩藪(しそう)
『詩藪』は、明時代の胡応麟が編纂した、古今の詩に対する評釈を集めた詩論書です。我が国におけるその刊行は貞享三年に始まりました。
胡応麟の深い洞察と独特の解釈により、歴代の詩人とその作品を網羅的に論評。
また、古詩と近体詩の区別を明確に述べたこの著作は、日本の詩史研究における画期的な先駆的存在として評価されています。
詩品(しひん)
『詩品』は、中国南北朝時代の梁の鍾嶸(しょうこう)によって編纂された詩論書で、全3巻から成り立っています。
もともとの書名は『詩評』とされていましたが、宋代以降『詩品』として広く知られるようになりました。
この書は、漢から梁初までの詩人123人の五言詩を対象に、上・中・下の三品に格づけして批評を行っています。
鍾嶸は各詩人の詩の源流や特色を簡潔に論じ、その詩風や詩の由来、強みや弱点を解説しています。
時には、同じランクの詩人間の微妙な違いや優劣も評価しています。また、代表作の言及や逸話の紹介を通じて、詩人の人物像や背景を浮き彫りにしています。
序文では、鍾嶸自身の文学論が展開されており、五言詩の重要性や特色、そしてその時代の詩風に対する見解や批評を独自の視点で語っています。
特に、五言詩の優位を主張し、当時の流行であった声律重視や典故を過度に使う詩風を批判しています。
『詩品』は、中国の詩論書としては初のものであり、後の文学評論や詩歌の評価において、大きな影響を与えました。
特に、劉勰の『文心雕龍』とともに、中国文学評論史上の重要な位置を占めています。日本にも影響を及ぼし、『古今和歌集』の序文にもその足跡が見られるとされています。
拾遺記(しゅういき)
『拾遺記』(しゅういき)は、中国の後秦時代の王嘉によって撰された志怪小説集で、10巻からなります。
収められているのは、上古の時代から東晋に至るまでの小説稗伝の類です。
撰者の王嘉は、隴西郡安陽県出身で、字を子年といい、未来を予言する能力で知られていました。しかし、390年頃、後秦の姚萇の不興を買い、処刑されました。
原本は失われてしまったものの、南朝梁の蕭綺が王嘉の遺文を集めて再編集しました。蕭綺によると、もともとの『拾遺記』は19巻、220編からなっていたとされますが、これは『晋書』の記述とは一致していません。
現在の版本は東晋の話まで含んでいますが、蕭綺の序文には「西晋末に終わる」との記述があります。この作品は『漢魏叢書』に収録されています。
周書(しゅうしょ)
『周書』は、中国の正史の一つとして二十四史に数えられる作品です。
唐の太宗の勅命を受けて、令狐徳棻らが編纂し、636年(貞観10年)に完成しました。この書は、西魏と北周の歴史を網羅しており、全50巻から成り立っています。
別名として『北周書』や『後周書』とも呼ばれます。
編纂の背景として、令狐徳棻は618年から627年にかけての武徳の時期に、五朝の正史の編纂を提案しました。
しかし、その時は完成には至らず、628年(貞観2年)に房玄齢を総監として編纂事業が再開され、『周書』を含む五朝史が完成しました。
基となった資料には、隋の牛弘による国史が含まれているとされます。
内容として、西魏の宰相、宇文泰から始まり、北周の5人の皇帝の事績を記録しています。さらに皇后や諸臣、そして芸術や儒学者などの伝記が続きます。
特徴的なのは、他の正史と異なり、外国に関する記述を「異域伝」と称している点です。
評価としては、『周書』が参照した資料の中に、北周の都合に合わせて書かれたものが多いという批判が存在します。
令狐徳棻は、これらの曲筆をそのまま採用してしまったため、後世からの批判を受けています。
また、この書は一度散逸し、後に『北史』などを基に再構築されましたが、その過程で原文の一部が失われたり、誤伝が入ったりする事態も発生しています。
以上のことから、『周書』は貴重な資料でありながら、内容には注意が必要であると言えます。
周敦頤(しゅうとんい)
周敦頤(しゅうとんい、Zhou Dun-yi、1017年 – 1073年)は、中国北宋時代の儒学者で、道州営道県(湖南省)出身。
彼の字は茂叔であり、彼は濂渓先生としても知られています。濂渓の辺りに生まれ、後には廬山の麓に濂渓書堂を築きました。
彼は生涯を通じて地方官として各地を転々とし、その徳望は一部の知識人に高く評価されたものの、生前は広く名を馳せることはありませんでした。
しかし、南宋の朱熹によって孔子や孟子の後継者として位置づけられ、その評価は一変しました。特に、朱熹が展開した道統論の中で、孔子・孟子の後継として周敦頤を位置づけたことにより、彼は儒学史において非常に重要な地位を獲得しました。
また、彼の学説に師事した程顥・程頤兄弟は、周敦頤の影響を受けて大きく成長しました。
周敦頤の主要な著作としては『太極図説』と『通書』が挙げられます。
『太極図説』では、「太極」を森羅万象の根源とし、陰陽と五行の相互関係をもとに、万物の生成のプロセスを説明しています。
『通書』では、『易』や『中庸』を基に「誠」の思想を詳述し、学問を通じて人は聖人となる可能性を持っていると論じています。
その学説や著作は、後の世代に大きな影響を与え、特に朱熹によって高く評価され、儒学の発展に大きく貢献しました。
十八史略(じゅうはっしりゃく)
『十八史略』(じゅうはっしりゃく)は、中国の通俗史書で、南宋の曾先之によって編纂された。
初めての版は2巻で構成されていましたが、明の陳殷によって音釈や注釈が加えられ、現在流布しているものは7巻本です。
内容としては、古代の三皇五帝の伝説時代から南宋までの十八の正史を編年体で要約してまとめており、「十八史」とは『史記』から『新五代史』までの17史に、曾先之が生きていた宋一代を加えたものを意味しています。
この書物は、正史だけでなく『資治通鑑』などからの抜き書きや、民間人によって書かれた歴史書(野史)も多く取り入れています。
特に北宋・南宋に関しては、曾先之の時代に『宋史』が未完成であったため、野史や他の記録類を多く参考にしています。
日本においては、室町時代に渡来し、江戸時代から明治時代にかけて非常に人気があり、初学者向けの中国史教科書として用いられました。
しかし、中国本土では、清代の学者からの評価はあまり高くなく、「田舎の塾の課本」といった低い評価を受けていたため、あまり知られていない部分もある。
主な理由として、著者が既存の歴史書の要所を切り取って繋げただけの内容であったため、固有の価値を持った古典としては認められなかったとされています。
周亮工(しゅうりょうこう)
周亮工(Zhou Liang-gong、1612年 – 1672年)は、中国明末から清初にかけての学者・文学者で、蔵書家としても知られました。
彼は河南省祥符(現在の開封)出身で、字を元亮、号を櫟園・減斎といいました。彼は1640年に進士及第し、明朝時代には浙江道の監察御史として仕えました。しかし、明朝の滅亡後、彼は清朝に仕官し、戸部右侍郎まで昇進しました。
しかし、一度は鄭芝龍の事件に連座し投獄されるものの、後に赦され、再び清朝に仕官しました。最終的には1662年に官職を辞めました。
彼は詩文、金石、書画といった幅広い分野での知識と技能を持っており、特に印章を好んでいました。
その趣味を活かし、印譜『頼古堂印譜』には1000方以上の印を収録し、篆刻家の伝記である『印人伝』を編纂しました。
また、彼は書画の鑑識家としても名高く、多くの著名な文人や画家と交流していました。彼の多くの著作が残っていますが、南明との戦乱で多くが焼失してしまいました。
日本の文学者・幸田露伴は、周亮工と彼の愛姫王氏との交情を題材にした作品「狂濤艶魂」を著しています。
朱熹(しゅき)
朱熹(1130年10月18日 – 1200年4月23日)は、中国南宋の著名な儒学者であり、朱子学の創始者として知られています。
彼は福建省に生まれ、死去するまでの間に、儒教の精神と本質を明らかにし、体系的に整理・発展させました。
朱熹は北宋の哲学者、特に程頤の思想を継承・発展させ、広範な領域にわたる体系的な哲学を築き上げました。彼は「四書」を特に重視し、『論語』の新しい注釈を作成するなどの業績を持っています。
彼の祖先は、五代十国時代の呉の朱瓌という人に遡ると言われています。彼の父、朱松は婺源県の出身で、科挙に合格後、官僚としてのキャリアを積んでいましたが、金軍の侵攻や政変によりその生活は波瀾含みでした。
朱松は朱熹に二程子の学びを伝え、その後も朱熹は父の友人たちのもとで学び続けました。
朱熹の主な著作には「四書集注」「近思録」「周易本義」「晦庵先生朱文公文集」などがあり、彼の思想と業績は後の世に大きな影響を与えました。
朱子語類(しゅしごるい)
『朱子語類』(しゅしごるい)は、中国宋代の儒学者、朱熹(朱子)が門弟たちとの座談を記録したものです。
朱子の交流の中からの発言や問答が集められ、これらは後に門類やテーマ別に分類されました。主に黎靖徳によって1270年に編纂され、全140巻から成り立っています。
この書物は朱子の思想体系を詳細に知ることができる貴重な資料であり、各種の経書や解釈書としての役割も果たしています。
特に、『朱子語類』は〈理気〉、〈鬼神〉、〈性理〉、〈学〉など30以上の項目にわたり、その配列や構造は朱子学の概観図としても参照されています。
『朱子語類』の成立前には、朱子の言葉をまとめた多くの語録や語類が存在していました。これらの中で代表的なものに、李道伝の34巻、李性伝の46巻、蔡杭の26巻、呉堅の20巻などがあります。
さらに、黄士毅の140巻や王佖の40巻といった語類の編本も存在します。黎靖徳はこれらの諸本を基にして、『朱子語類』を最終的な決定版として編纂しました。
このような語録スタイルの文献は、古くは『論語』時代にさかのぼることができますが、特に唐代の禅者たちによって愛用されていた方法です。
日本にもこの書物は伝わっており、特に江戸時代には山崎闇斎の学派によって重視されていました。
朱震亨(しゅしんこう)
朱震亨(しゅしんこう、Zhū Zhèn hēng)は、1281年から1358年までの生涯を持つ、中国金・元時代の医師であり、金元四大家の一人として知られています。
彼は浙江省の金華県義烏に生まれ、字(あざな)は彦修(彦脩)、且丹渓先生とも称されました。本来は儒学を学び、挙子業として経学を修めていましたが、後に医学への転向を選びました。
彼の医学の学びは、当初は『和剤局方』に基づいていましたが、その後『素問』や『難経』の重要性を認識し、李杲(りこう)や他の金・元時代の先人の著作を参照しながら学びました。
特に、羅知悌という医師のもとでの学びが深かったと言われています。
朱震亨の医学上の主要な理論は「陽は常に余りがあり、陰は常に不足している」という考えに基づいています。
この理論に従い、彼は臨床治療において陰分の保養を強調し、滋陰・降火の薬剤の使用を推奨しました。このため、彼の医学は「滋陰派」とも称されています。
彼の主な著作には『局方発揮』、『格致余論』、『丹渓心法』などがあります。特に、李杲とともにその医学が「李朱医学」として称されるほど、後世に影響を与えました。
周礼(しゅらい)
『周礼』(しゅらい)は、中国の古典として知られる書物で、儒教経典の一つに数えられる。最も古い礼書の一つとして位置づけられ、『礼記』『儀礼』とともに「三礼」と称されます。
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元々の書名は『周官』で、周公旦が作成したとの伝説がありますが、劉歆が作ったという説や、戦国時代末期に成立したとの現代的な見方も存在します。
内容的には、周王朝の「礼」、すなわち習俗や政治制度、特に官位制度に関する記述が中心となっています。
この制度は、戦国時代以降の儒者たちに理想とされましたが、考古学的な調査から得られる情報や他の先秦の文献とは一部矛盾している点が指摘されています。
前漢時代に河間献王により入手され、新の王莽の時代に経典として扱われるようになりました。その際に書名が『周礼』に改められ、一部の欠けていた篇を『考工記』で補完しました。
歴史的な注釈として、後漢の鄭玄による注や唐の賈公彦による疏が存在し、『周礼注疏』としてまとめられています。
また、鄭玄以外の注は現存していないものの、清末の孫詒譲が『周礼正義』としてその考証をまとめています。
この『周礼』は、多くの儒者や学者たちによって研究され、注釈が付けられるなど、中国古代文化の理解に重要な役割を果たしています。
荀子(じゅんし)
荀子(じゅんし、紀元前298年(または紀元前313年?) – 紀元前238年以降)は、中国戦国時代末の著名な儒学者で、趙の出身です。
実名は況(じゅんきょう)といい、尊称して荀卿(じゅんけい)や孫卿とも呼ばれました。
50歳の頃、斉に遊学し、斉の襄王に仕えた後に、稷下の学士の祭酒(学長職)に任命されました。しかし、讒言により斉を去ることとなり、楚の宰相春申君の下で蘭陵の令として働きました。
後に職を辞しましたが、その地に滞在し続けました。後漢の荀彧・荀攸は荀子の末裔とされています。
彼の思想は「性悪説」で知られ、これは人間が本来悪であるとする説です。しかし、礼や楽を中心とする訓練を通じて人間は徳に導かれるとも主張しました。
この思想は、人間の努力と礼の重要性を強調するもので、天命思想とは対照的です。
彼の著作として『荀子』が知られており、初めて『孫卿新書』としてまとめられましたが、後に唐の楊倞により『荀子』という名前で再編集されました。
唯一の宋代の刊本は日本の金沢文庫に保存されており、江戸時代に久保愛によって『荀子増注』として参照されました。中国では王先謙がこの文献を参照して『荀子集解』を著したのは比較的最近のことです。
荀子は、その思想と著作で、戦国時代の学問と文化に多大な影響を与えました。
春秋公羊伝(しゅんじゅうくようでん)
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『春秋公羊伝』(しゅんじゅうくようでん)は、古代中国の重要な注釈書で、経典『春秋』の三大伝承の一つとして知られます。『春秋左氏伝』・『春秋穀梁伝』と並び、春秋三伝と称されています。この伝は、斉の地で栄えた学問とされ、春秋学の基本思想、特に「復讐説」などを解明しています。
伝えられるところによれば、『公羊伝』の起源は孔子の高弟子である子夏にまでさかのぼるとされ、子夏が公羊高にこの学問を伝えたと言われています。
公羊高から公羊平、公羊地、公羊敢と伝わり、最終的に公羊寿がそれをまとめたとされています。
しかし、この系譜に関しては完全な確証がないため、慎重に受け取る必要があります。
春秋学としての『公羊伝』は、微言大義を明らかにしようと努力し、孔子が統一王者の法を『春秋』に込めていると解釈しています。
前漢時代には、学者董仲舒などによりこの伝が引き継がれ、後の時代でも『春秋公羊伝解詁』という著作を通じて、春秋の理念を解釈・発展させる動きが見られました。
長い間、『公羊伝』の影響は『左氏伝』によって影を潜めていましたが、清代において再び注目を集めるようになりました。
春秋穀梁伝(しゅんじゅうこくりょうでん)
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『春秋穀梁伝』(しゅんじゅうこくりょうでん)は、中国の春秋三伝の一つとして知られる書物であり、『春秋公羊伝』『春秋左氏伝』と並び称されます。
正確には経書ではありませんが、経学の重要書物として準経書扱いされています。五経には含まれていないものの、十三経の一つとされています。
この伝の成立年や起源に関しては明確な情報は存在しないが、孔子の弟子子夏の門人、穀梁赤によるものと伝えられています。
しかし、具体的な成立背景や時期については明らかではありません。『公羊伝』が斉の学者を中心に発展したのに対し、『穀梁伝』は魯の国を中心に栄えたと言われています。
前漢の宣帝期に、宣帝が『穀梁伝』に好意を示したことから、この学問が一時的に盛んになりました。宣帝は蔡千秋に命じて、郎官十人に『穀梁伝』を教授させ、その普及を試みました。
また、公羊学と穀梁学のどちらが優れているかを議論する場を設け、多くの学者が参加した議論の結果、穀梁学が優勢を持ちました。
しかし、これが『穀梁伝』の最も栄えた時期であり、その後は衰退していきました。南北朝時代には、『穀梁伝』の書物自体は存在し続けましたが、その教えを伝える師はいなくなってしまいました。
春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)
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『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん)は、中国の古典文献の一つで、春秋三伝(『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』と共に)の中の一つです。
『春秋左氏伝』に対して西晋の杜預が附した注釈である『春秋経伝集解』の冒頭。
この書は、孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の注釈書として知られ、紀元前700年頃から約250年間の魯国の歴史を記述しています。
伝統的には、『左伝』の著者として、孔子と同時代の魯の太史、左丘明(さきゆうめい)の名が挙げられてきました。
しかしこれは伝説とされ、真実性には議論があります。実際には、前漢末期の劉歆(りゆうきん)の時代に、『左伝』が公に知られるようになりました。
『左伝』は、他の二つの伝と比べて史実をより忠実に伝えており、春秋時代の歴史を知る上で非常に重要な文献とされています。
特に、当時の戦争に関する記述は詳細で、他の注釈書『春秋公羊伝』や『春秋穀梁伝』とは異なり、必ずしも『春秋』の本文の注釈としての役割に限らず、独自の歴史的記録も含んでいます。
日本でも、『左伝』は古くから読まれ、その中からの故事や成語が今も使われています。福澤諭吉は、自著『福翁自伝』で『左伝』に関する熱い思いを述べています。
春秋学という分野では、『左伝』は歴史書としての位置付けが強く、特に宋代の儒学者朱熹は、「左伝は史学、公・穀は経学」と位置付けました。
総じて、『春秋左氏伝』は、中国古典文献としての価値のみならず、春秋時代の歴史を理解する上での貴重な手がかりとして今も評価されています。
春秋繁露(しゅんじゅうはんろ)
『春秋繁露』(しゅんじゅうはんろ)は、前漢の学者董仲舒が著したとされる書物です。
公羊学の立場から『春秋』の精神や思想を解明したこの書は、17巻82篇から成り立っています。
しかし、書名の『春秋繁露』は、董仲舒の時代には存在しなかったとされ、後の時代にこの名前で知られるようになりました。
この書は、君主権の強化や徳を尊重する考え方、倫理学的な動機の重視、結果主義の認知、そして権力の理論など、さまざまな論理を含んでいます。
特に、礼楽説や天人相関の理論、陰陽と災異説の考察など、漢代の儒教を方向づける要素が多く含まれており、後の時代の学派にも影響を与えました。
成立の経緯を見ると、『漢書』によれば、董仲舒は123篇の著作を持ち、『春秋』に関する複数の著述があったと伝えられています。『春秋繁露』の名前自体は、南朝梁の時代の阮孝緒『七録』で初めて確認されます。
しかしながら、『春秋繁露』の真作性については議論が多いです。過去には欧陽脩や朱熹などが真偽を問う声を上げましたが、『四庫全書総目提要』では「全部が董仲舒の作とは言えないものの、完全な偽作とは考えられない」との見解を示しています。
思想的な面から見ると、『春秋繁露』が五行思想を取り入れているのに対し、『漢書』での董仲舒の災異説は五行を取り入れていないという違いが指摘されています。
遵生八牋(じゅんせいはっせん)
『遵生八牋』(じゅんせいはっせん)は、明時代の高濂(こうれん)によって著された中国の随筆書で、20巻から成り立っています。
1591年に自序が付されたこの書は、日常生活の修養や養生に関する様々な知識が綴られております。
また、歴代の隠逸者100人の事跡も記録されていて、文人の趣味や生活に関する基礎的な文献として知られています。
長阿含経(じょうあごんきょう)
『長阿含経』(じょうあごんきょう)は仏教の漢訳『阿含経』の一部で、法蔵部によって伝えられています。
この経典は、パーリ語経典の「長部」(ディーガ・ニカーヤ)に対応しており、大正新脩大蔵経のNo1として収録されています。
構成としては、冒頭の「序」を始め、合計30の経典が含まれています。
これには『大本経』や『遊行経』、『典尊経』といった経典が数えられており、それぞれ異なる教えや内容が述べられています。
小学(しょうがく)
小学(しょうがく)は、中国宋代の学者、朱熹の門人である劉子澄が編集した初学者向けの教科書です。1187年に完成され、全6巻からなっています。
この書は日常の礼儀や作法、格言、善行などをさまざまな古今の書籍から集めた内容となっています。日本の江戸時代にも教育の際に参照された資料として用いられました。
貞観政要(じょうがんせいよう / ぢょうがんせいよう)
『貞観政要』(じょうがんせいよう)は、中国の唐代に呉兢によって編纂された太宗の言行録であり、太宗の在位の年号「貞観」を冠しています。
この書は全10巻40篇から成り立っており、その名の通り、太宗の政治の要点や考え方が詳しくまとめられています。
太宗の治世、特に貞観の治は平和で繁栄した時期として知られ、その中で太宗と彼を補佐した重臣たち(魏徴、房玄齢、杜如晦、王珪など)の間での政治的な問答が詳しく記されています。
太宗は英明な君主でありながらも、臣下の忠告や諫言を歓迎して受け入れる姿勢を持っていました。そのため、この書には太宗と臣下たちとの対話が多く記録されており、それを通じて理想的な治世の秘訣や政治の心得が語られています。
また、太宗は質素倹約を奨励し、国の財政を健全に保つことを重視しました。これにより、国民の生活も豊かになりました。
このような太宗の姿勢は儒教の精神からきており、太宗は天の意志を体して仁慈の心で民を愛育するべきだという儒教の理念を実践していました。
『貞観政要』の編纂は、太宗の死後40~50年後、中宗が復位した時期に行われました。初めは中宗のために呉兢が編纂し、その後玄宗の時代にさらに改編されて広く読まれるようになりました。
この書は中国で非常に評価が高く、後の歴代王朝の君主たちに愛読されました。そして、日本にも伝わり、平安時代から天皇や貴族たちに読まれ続けてきました。
まとめると、『貞観政要』は太宗の政治の理念や実践が詳しくまとめられた書であり、中国だけでなく日本にも大きな影響を与えた重要な文献となっています。
蕭統(しょうとう)
蕭統(しょうとう、501年9月 – 531年5月7日)は、南朝梁の皇太子として知られる人物で、昭明太子(しょうめいたいし)という諡号で広く称されています。彼は武帝蕭衍の長男で、襄陽で誕生しました。その母は丁令光という貴嬪で、彼は後に廃帝豫章王蕭棟の祖父となり、後梁の宣帝蕭詧の父ともなりました。
幼少期から頭脳明晰で、3歳の時には『論語』や『孝経』を読み、さらに5歳で五経を全て読破するなど、その聡明さが伝えられています。
大人になると国政に関与し、仁政を行って民衆のために尽力しました。また、彼は文章家としても知られ、蔵書3万巻を持つほどの文学愛好者でした。
その環境のもと、多くの文人たちが彼のもとに集まり、『文選』という詞華集を編纂する助けをしました。この『文選』は、梁の武帝の長子としての彼の成果として後世に知られています。
しかし、彼の人生はある日、舟遊び中に水に転落し、その事故が元で病を発症し、30歳で病死しました。その悲劇は止まらず、彼の蔵書も後に、江陵の元帝が西魏に滅ぼされた際に全て失われました。
それに続いて、彼の三男蕭詧が西魏の手により後梁の天子として即位する際に、蕭統には追って高宗昭明帝の称号が贈られました。
正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)
『正法眼蔵』は、日本の曹洞宗の開祖である道元によって執筆された仏教の著作で、日本の禅宗文献の中でも非常に重要な位置を占めています。
道元は、中国の禅宗から取り入れた教えを日本で発展させ、彼独自の深い禅の理解を『正法眼蔵』に記しています。
要点として以下のことが挙げられます。
- 『正法眼蔵』は道元の主要な著作の一つで、その中で坐禅の重要性を強調しています。
- この著作は、仏教の根源である釈迦の教えと直結しており、坐禅を通して真の仏法を実践することの重要性を説いています。
- また、『正法眼蔵』は、すべての生命が仏性を持っているという思想を中心に据えています。
- 道元は、当時の他の仏教者が漢文で著述していた中、日本語の仮名を用いてこの著作を書いたことも特徴的です。
- 『正法眼蔵』には、真字本(公案集)と仮字本(和文体)の2種類があります。
この文献は、禅宗の教えや日常生活に関する深い洞察が詰め込まれており、日本の仏教思想の中でも特に高く評価されています。
正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)
『正法眼蔵随聞記』(しょうぼうげんぞうずいもんき)は、鎌倉時代中期に成立した、曹洞宗開祖である禅僧・道元の教えを記録した仏書です。
この書は、道元の2歳年長の弟子で永平寺2世の孤雲懐奘(こうんえじょう)が、約20年間にわたって道元の随侍としてその講話や問答を克明に筆記したものです。
成立は、道元が宋から帰朝し、京都市伏見区の山城深草の興聖寺に滞在していた1234〜38年の嘉禎年間で、懐奘の死後にその弟子たちによりまとめられました。
6巻からなるこの文献は、仮名書きで平易に書かれており、道元の思想や人物を深く理解する上での基本的な文献とされています。
また、これには慶安刊本系、面山瑞方の校訂による明和刊本系、長円寺本系の3つの系統があり、内容や配列に若干の違いがあるものの、最近では長円寺本系がもっとも古形を伝えていると言われています。
諸葛亮(しょかつりょう)
諸葛亮(しょかつ りょう、181年 – 234年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍師であり、その丞相としても知られます。
彼の字(あざな)は孔明で、出生地は徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)です。
若い頃は襄陽で隠居生活をしていましたが、劉備による三度の訪問、通称「三顧の礼」を受け、彼のもとで仕えることとなりました。
諸葛亮は、赤壁の戦いで曹操を破る策略を助言し、四川の領有を勧め、三国鼎立の時代を築き上げました。
劉備亡き後も蜀のために尽力し、魏との対決を繰り広げましたが、五丈原の陣中で逝去しました。彼の業績や知略は今日においても高く評価されています。
書経(しょきょう)
『書経』は、中国古代の重要な経書で、五経の一つとして知られます。
もともとは孔子が編纂したとされ、伝説の聖人堯・舜から周王朝までの時期の政治上の心構え、訓戒、戦いの際の檄文などを収めています。
先秦時代には「書」と称されていたが、漢代に「尚書」という名が生まれ、広く使用されるようになりました。この「尚」の語は「上」と通じ、書の重要性を示しています。
三つの異なる説明が存在しており、馬融は上古の有虞氏の書として、鄭玄は天上・至上の書として、王粛は帝王の言動を記録した書として「尚書」と名付けられたと説明しています。
しかし、南宋時代から「書経」という名称が生まれ、現在では「書経」と「尚書」の名で併用されています。
内容として、2種類の本文が知られています。これらは「古文尚書」と「今文尚書」として区別されます。
しかし、現在伝わっている「古文尚書」は、偽作であるとの認識があり、真の「古文尚書」は今日には伝わっていないとされています。
『書経』の成立過程は複雑で、確定的な答えが存在しない点も多いです。
儒教の伝統的な説と近年の研究説が存在し、その成立背景についての解釈は一定していません。
蜀志(しょくし)
『蜀志』は、『三国志』の一部として、『魏志』や『呉志』と共に三国時代の歴史を伝える書です。
『三国志』は、古代中国の重要な歴史書『史記』、『漢書』、『後漢書』とともに「四史」と称されます。
この中で、『魏志』は30巻、『蜀志』は15巻、『呉志』は20巻から成り立っています。
特に、『魏志』の中の「東夷伝」には、倭人伝という章が含まれており、これは日本の古代史に関する重要な情報源として知られています。
続日本紀(しょくにほんぎ)
『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰の日本の史書です。『日本書紀』の後を継ぎ、六国史のうちの2番目に位置づけられます。
以下はその要点です。
- 内容:文武天皇1年(697年)から延暦10年(791年)までの95年間を編年体で叙述しています。
- 巻数:全40巻からなる。
- 完成:延暦16年(797年)に完成された。
- 編纂:編纂過程は複雑で、前半と後半で異なる経緯を持ちます。前半部分は孝謙天皇までの部分が早く編集されたが、一部が紛失し、その後修正と再編が行われました。後半部分は桓武天皇の時代にさらなる編集と加筆が行われました。
- 特徴:『続日本紀』は、律令国家が形成され、各種の公文書や記録が整備されたことで、比較的信頼性の高い記述がされています。しかし、政治的配慮による記事の削除や変更も確認されています。
- 史料価値:続日本紀は、奈良時代から平安時代初期の政治や文化を理解するための基本史料として非常に価値があります。特に“天平文化”の側面を解明する上での重要な史書とされています。
この史書は、日本の歴史研究や教育の場で、古代日本の政治や文化を理解するための基本的な資料として参照されています。
書言故事(しょげんこじ)
『書言故事』は、中国宋時代の類書で、胡継宗が編纂しました。
この書は10巻または12巻からなり、古代の著名な故事成語を集めています。
これらの成語は十二支に基づき分類され、さらに人君類、儒学類、神仙類などのカテゴリーに細分化されています。
各成語には、その出典とともに解釈が添えられ、ほとんどの成語は2語から4語の見出しで提示されています。
新五代史(しんごだいし)
『新五代史』(しんごだいし)は、中国の正史の一つで、二十四史に数えられます。
この歴史書は宋の欧陽脩によって書かれました。
元々の名称は『五代史記』で、私撰として書かれたものでしたが、後に官書、つまり正史として認められました。
内容は907年の後梁の開平元年から960年の後周の顕徳7年までの五代王朝の歴史が紀伝体で記されており、全74巻から成り立っています。
この歴史書は、君臣の道徳や中華思想を基本としています。
また、古文体の簡潔な文章で原史料を書き改められている特徴があります。
それに対して、欧陽脩の史観が強く出ており、事実誤認や創作も混じっているため、史料としての評価は『旧五代史』に劣るとされています。
特に、本来五代王朝の節度使に過ぎなかった荊南節度使を、あたかも独立した国家(荊南)のように記述している点については、欧陽脩の個人的な史観によるものとの指摘も存在します。
成唯識論(じょうゆいしきろん)
『成唯識論』(じょうゆいしきろん)は、インド大乗仏教の著名な論典で、法相宗の根本典籍として知られています。
この著作は護法によって書かれ、世親が著した『唯識三十頌』に対する注釈としての性格を持ちます。
「ヴィジュニャプティ・マートラター」は「唯識」を意味し、「シッディ」は「成就」を意味します。そのため、この論典は「唯識による悟りの成就についての論」を中心に扱っています。
中国の唐代に、玄奘がこの論典を漢訳しました。もともとは護法を含む多くの学匠の説が記された大著でしたが、玄奘の訳出時に護法の学説を中心として編集されました。
日本にも伝わり、法相宗の基礎として、そして唯識の教学として長らく研究されてきました。
注釈書として特筆すべきものに、玄奘の弟子・基が著した『成唯識論述記』があります。
これは玄奘の口述に基づくもので、唯識学の根本聖典として位置づけられています。
その他にも多くの注釈書や解説書が存在し、近年では新しい訳解説も刊行されています。
徐積(じょせき)
徐積(じょせき)は、北宋時代の人物で、天聖6年(1028年)から崇寧2年(1103年)にかけての生涯を持っています。
彼の字は「仲車」といい、出身は楚州山陽でした。
徐陵(じょりょう)
徐陵(じょりょう、507年 – 583年)は、中国の南朝梁から陳にかけての文学者および政治家で、字は孝穆(こうぼく)。東海郡郯(たん、山東省)の出身。
父は徐摛(じょち)で、梁の太子蕭綱(後の簡文帝)の文学サロンの中心人物として「宮体詩」の創始者とされています。
幼少時代から聡明さを示し、8歳で文章を綴り、12歳で『荘子』『老子』に通じるなど、非凡な才能を持っていました。
梁時代、父の影響を受けて蕭綱の文学集団に加わり、庾信や庾肩吾と共に「宮体詩」の流行を築き上げました。
また、蕭綱の命で詩集『玉台新詠』を編纂し、その序文は六朝時代の駢文の代表作として名高い。
政治家としても才能を発揮し、梁と陳の両朝で数々の要職を歴任。特に陳朝では、詔勅や檄文の多くを手がけるなど、政策の形成に大きく貢献しました。
陳の王朝での彼の位置づけは非常に高く、「一代の文宗」として讃えられています。
徐陵の文章は、単なる美文だけでなく、彼の体験した歴史の激変を反映した現実の把握の力を持つもので、庾信と並び称されることが多いです。
彼の著作として『徐孝穆集』6巻が残されています。
徐陵は、南朝の文学と政治の両面でその才能を発揮し、梁から陳へと続く時代の変遷を体現する重要な人物であったと言えます。
詩話総亀(しわそうき)
詩話総亀(しわそうき)は、中国の詩話集です。
この書は、北宋末期の阮閲によって編纂され、宣和5年(1123年)に完成しました。
もともとの名前は『詩総』として知られていました。
その後、他の人の手で改編され、紹興31年に公開されました。
この詩話集は、過去のさまざまな詩に関する挿話や話題を106のカテゴリに分けて収集・配列しています。
新楽府(しんがふ)
新楽府(しんがふ)は、中国の古典詩の様式の一つで、唐代以後に登場した新しい楽府形式の詩を指します。
この名前は、漢の武帝が設立した役所の名前から、詩のジャンル名として使われるようになった楽府に由来します。
特に、唐代の詩人白居易は、楽府が民衆の声を代弁し、政治家の参考にすべきだとの立場から、50首の「新楽府」を作成しました。
白居易のこのコンセプトは、楽府が時の政治や社会を諷喩し、民衆の喜怒を歌うものとして広く受け入れられました。
このため、「新楽府」という名前は、白居易の作品やその精神を継承した詩を指すことが多くなりました。
また、白居易の「新楽府」以外の新しい楽府形式の詩は、区別として「近代曲辞」とも呼ばれることがあります。
申鑒(しんかん)
申鑒(しんかん)は、中国の儒家の思想書で、後漢の荀悦(じゅんえつ)によって撰されました。
この書は、政体・時事・俗嫌・雑言の4篇、合計5巻から成り立っています。
荀悦は、時代の政治変動、特に曹操への政権移行を憂えてこの書を著し、漢の政治の理想や物の道理について述べました。
最終的には献帝に奉ったとされるこの書は、「荀子」と対比して「小荀子」とも称されています。
新語(しんご)
新語(しんご)は、二つの異なる文脈での意味を持っています。
- 新語は新しく作られたり、使われ始めたりする言葉、すなわち新造語を指します。これは新しい事物や概念を表現するため、または既存の単語に新しい意味を付加するために生まれます。例として、戦車を指す「tank」や「アパート」を新鮮に表現した「マンション」などが挙げられます。このような新語は、従来の言葉からの合成や省略、外国語や方言の借用などによって作られることが一般的です。
- 一方、『新語』は前漢初期の古代中国で、陸賈によって著された書籍の名前でもあります。この書は、漢の高祖・劉邦の要請により、諸国の興亡の原因について説明するものとして書かれました。全12篇から成るこの書は、国の存亡に関する考察をまとめたもので、劉邦の時代に書かれたものとされています。この『新語』の歴史やエピソードは、後代の『史記』に記されており、宋代や明代を経て、現代にも伝わる版本が存在します。
総じて、新語は新しい言葉や概念を指す一方で、古代中国の歴史的な書籍の名称としても知られています。
新五代史(しんごだいし)
『新五代史』(しんごだいし)は、中国の正史の一つで、宋の時代に欧陽修によって書かれました。
元々は『五代史記』という名前で、私撰として書かれていましたが、後に正史として認められ『新五代史』と改称されました。
この史書は74巻から成り立っており、後梁、後唐、後晋、後漢、後周の五代王朝の歴史が収められています。907年から960年までの期間の出来事を詳細に記載しています。
元々は薛居正が『旧五代史』を撰していましたが、欧陽修はこれを基にして、自らの史観を取り入れて書き直しました。
そのため、二つの史書は内容や評価が異なります。現代の歴史学会では、『新五代史』には事実誤認や創作が混じっているとの評価があり、『旧五代史』と比較してその史料としての価値については議論があるようです。
簡潔に言うと、『新五代史』は宋時代の欧陽修が書いた五代王朝の歴史を記した正史の一部で、彼の独自の史観に基づいて書かれており、現代の評価は賛否両論となっています。
清史稿(しんしこう)
『清史稿』(しんしこう)は、中華民国成立後の1914年に開始された清朝の正史編纂プロジェクトの成果であり、趙爾巽ら約100人以上の学者によって編纂された。
この歴史書は清王朝の事績を網羅する紀伝体の草稿で、総計536巻から成り立っており、本紀25巻、志142巻、表53巻、列伝316巻を含む。
編纂は清史館において行われ、趙爾巽を館長として進められた。
しかし、政情の不安や資金不足などの理由で作業は遅延し、実際の完成は1927年となった。
その後の出版においては、関内本と関外本の2つの系統が存在し、関外本にはさらに第1次本と第2次本の2種がある。
中華民国は共和制の国家であり、新しい王朝が前王朝の正史を編纂するという伝統があった。清朝が最後の王朝となったため、その正史の編纂には様々な議論や問題が生じた。
現在、中華人民共和国と台湾の中華民国では、『清史稿』の位置づけや続編に関してもさまざまな動きがある。
晋書(しんじょ)
『晋書』(しんじょ)は、中国晋朝(西晋・東晋)の歴史を記述した正史で、二十四史の一つです。唐の太宗により、房玄齢・李延寿らが編纂を開始し、648年に完成しました。
本書は、帝紀10巻、志20巻、列伝70巻のほか、五胡十六国の歴史を記述した載記30巻で構成されています。
太宗李世民は、自らも「王羲之伝」を執筆するなど、『晋書』編纂に関与しました。この書の編纂は、国家事業として行われ、太宗の欽定史書としての位置づけを受けました。
このような国家主導の史書編纂は、以後の正統王朝でも継承されました。
成立前には、多くの史家による晋の歴史書が存在し、その中で代表的な18種類のものは「十八家晋史」と呼ばれていました。
『晋書』編纂に当たっては、これらの文献や五胡十六国の歴史を記述した崔鴻の『十六国春秋』などが参考にされました。
『晋書』の本紀には、晋の始祖である司馬懿から最後の恭帝司馬徳文までが記載されています。ただし、載記には東晋滅亡後の人物も取り扱われています。
本書では、武帝の即位前に死去した人物の伝記は原則として立てられていません。
この『晋書』は、過去の正史とは異なり、多人数による分纂方法が採用された初めての勅撰史書で、これが新しい評価や批判の対象となりました。
岑参(しんしん)
岑参(しんしん、715年 – 770年)は、唐代の中国の詩人。
本貫は南陽郡棘陽県で、湖北江陵の出身。彼は岑嘉州とも称され、高適とともに詩人として並び称されます。
彼の曾祖父は岑文本、祖父は岑景倩、父は岑植です。
天宝3載(744年)に進士となり、節度使の幕僚として西域に長く在籍しました。
安禄山の乱が発生した至徳2載(757年)には、粛宗に仕え、杜甫の推挙により右補闕となりました。後に粛宗に従い長安に赴く。
その後、虢州の刺史や嘉州の刺史などの官職を歴任しました。大暦5年(770年)に成都で亡くなりました。享年56歳。
詩人として、彼は戦地の体験や辺境、砂漠の遠征、別離の情を活写した詩で知られ、特に辺塞詩人としての詩は高く評価されています。
彼の代表作には「岑嘉州集」があり、この中には彼の生涯の詩403首と散文2篇が収録されています。特に「胡笳の歌」という詩は非常に有名です。
岑参は、その豊かな表現力や異国情緒を生き生きと綴った詩で、唐詩の中でも独特の位置を占めています。
沈佺期(しんせんき)
沈佺期(しんせんき、656年頃 – 716年頃)は、中国唐代初期の詩人で、字は雲卿。河南省の内黄県出身で、初唐の文学者としても名高い。
彼は進士及第した後、武則天の宮廷で詩人として活躍し、宮廷詩人として名声を博しました。
特に、宋之問と並び称され、「沈宋」と併称されるほどの影響力を持った。
沈佺期は律詩の詩型、特に五言律詩の整備や、当時成熟していなかった七言律詩の確立に重要な役割を果たしました。
彼の生涯には数多くの波乱がありました。
特に、収賄の罪で投獄された後、張易之兄弟の失脚に伴い、他の宮廷詩人らとともに遠くの嶺南に左遷されました。
さらに、彼は収賄の罪が追加され、最南の驩州(現在のベトナム北部)に流された。
しかし、翌年に恩赦が出され、彼は台州録事参軍に任命され、その後も中宗の宮廷詩人として再び活躍しました。
彼は中書舎人や太子少詹事なども歴任し、玄宗の開元の初めに亡くなりました。
彼の詩は、美しい辞句や音韻の調和を特徴としており、当時の中国詩の発展に多大な影響を与えました。
神仙伝(しんせんでん)
『神仙伝』(しんせんでん)は、中国の仙人たちの伝記集で、晋の時代の葛洪によって著された10巻の書籍です。
総数92人の神仙や、神仙の道を追求したとされる人々、さらには架空の人物の伝記が収められています。
葛洪は、当時の仙道学の権威であり、神仙の道を論じた『抱朴子』も著しています。
『神仙伝』は、この『抱朴子』と対をなす書籍として、神仙の実在性を証明する目的や、先行する『列仙伝』という同種の書の補完を意図して著されたものです。この書籍には、仙書や諸子の書、伝説などの資料が集約されています。
しかし、現存する『神仙伝』には、葛洪と同時代の郭璞の伝が含まれているなど、後世の改編が加えられたと考えられる要素が存在します。
特に、『漢魏叢書』や『説郛』などに収められる現行の本は、原本とは内容が異なる可能性が指摘されています。
総じて、『神仙伝』は、中国の仙人伝として非常に重要な文献であり、中国の神仙思想の展開を理解するための不可欠な資料となっています。
真宗(しんそう)
『真宗』は、東アジアの歴史や宗教において、特定の意味や背景を持つ言葉です。
- 真宗(しんそう)としての北宋の皇帝:
- 真宗(しんそう)は、968年から1022年までの生涯を持つ北宋の第3代皇帝で、本名は趙恒です。彼は997年から1022年まで在位しました。
- 30歳で即位した真宗は、1004年に南下してきた契丹(きつたん)と澶淵(せんえん)の盟を結び、その後の時代を安定期として迎えました。この和平は宰相寇準(こうじゆん)の支援によって実現しました。
- さらに、真宗は宮中に天からの書が降ったとの出来事を契機に、泰山で天を、汾陰(ふんいん)で地を祭るなどの儀式を行いました。また、玉清照応宮をはじめとする大規模な道教の寺院を建設し、先祖が蓄積してきた財貨を民間に流通させました。しかしながら、彼の治世では宮殿建設などの土木工事により、国費の大半が浪費されたとも言われています。
- その他の真宗:
- 真宗は、東アジアの皇帝や王の廟号としても使用されています。例として、後黎朝大越の真宗(黎維祐、在位:1643年 – 1649年)や、李氏朝鮮の真宗(孝章世子李緈、生没年:1719年 – 1728年)が挙げられます。
これらの情報を元に、『真宗』は北宋の皇帝の称号として、またその他の東アジアの国々の君主の称号として使われていることが理解できます。
新唐書(しんとうじょ)
『新唐書』は、中国の歴史書「二十四史」の一部として知られる唐代の正史です。
- 概要:
- 『新唐書』は、北宋時代の1060年に成立しました。この書は、欧陽脩、宗祁らが撰述し、宋の仁宗の命によって、『旧唐書』を改訂・増補したものです。
- 構成としては、本紀10巻、志50巻、表15巻、列伝150巻の全225巻から成り立っています。
- 編纂の経緯:
- 『旧唐書』は唐末五代の戦乱の影響で、史料不足や欠落が見られました。これを補完する形で、新たな史料をもとに『新唐書』が編纂されました。
- この書の編纂には、多くの当時を代表する学者が関与しています。特に、欧陽脩が編纂した部分は、その簡潔な文体で知られています。
- 評価:
- 『新唐書』は、簡潔な文体での叙述や「春秋の筆法」と呼ばれる主観的な叙述を用いたことから、客観性を欠くとの指摘がある一方で、天文学史の分野では当時の天文現象を記述した貴重な資料として評価されています。
- 一部の俗説を取り入れた記述や、史料の価値において『旧唐書』に及ばないとの評価も存在します。特に、清朝の学者たちからは批判的な意見が多く寄せられています。
- 日本についての記述:
- 『新唐書』には、日本に関する記述も含まれており、「咸亨元年」すなわち670年に「倭」から「日本」と名称を変えたとの記録があります。また、隋の時代に天皇家と中国が初めて通交したことや、神武天皇に関する情報なども記載されています。
以上、『新唐書』は、宋代の学者たちにより編纂された、唐代の正史であり、既存の『旧唐書』を改訂・増補したものであることがわかります。
沈約(しんやく)
沈約(しん やく、441年 – 513年)は、中国六朝時代の著名な文学者・政治家であり、呉興郡武康県(現在の浙江省湖州市徳清県)の出身。字は休文。少年時代には、家計の困窮の中、熱心に学問を追求しました。
彼は南朝宋・斉・梁の3つの王朝で要職に仕えました。特に、南朝斉の竟陵王蕭子良の文学サロンにおいて、重要な役割を果たし、「竟陵八友」の一人として数えられました。
蕭衍(後の南朝梁の武帝)の挙兵を支援した結果、南朝梁の成立に貢献し、その功績により尚書令として高官に昇進しました。
しかし、晩年には武帝の不興を買い、憂愁の中で亡くなりました。このため、彼の諡号は「文」とされるはずでしたが、武帝の命により「隠」とされました。
文学の面では、「竟陵八友」として、詩の韻律や形式美を追求。彼らは「永明体」と称される独特の詩風を生み出しました。沈約自身は「四声八病」の理論を唱え、詩の音律美を制定し、実践に励みました。
この詩風は、後の唐代の律詩の基盤となりました。
また、沈約は歴史家としても知られ、『宋書』を著した。この書は、歴代の正史の中でも高く評価される優れた作品です。
水滸伝(すいこでん)
『水滸伝』(すいこでん)は、明代の中国における長編白話小説で、『西遊記』『三国志演義』『金瓶梅』とともに「四大奇書」に数えられます。
この作品は、元の施耐庵や明の羅貫中によって書かれたとされていますが、実際の作者には異説も存在します。複数のバージョンが存在する中で、金聖嘆編集の70回本が特に広まっています。
物語は北宋の時代を背景に、徽宗の時代に宋江を首領とする108人の群盗が梁山泊で官権に立ち向かう姿を描いています。
原点としては、14世紀の『宋史』に記された宋江を首領とする36人の盗賊団の史実があります。この史実は、南宋の講談師たちにより膨らませられ、物語が豊かに展開されていきました。
15世紀の水滸伝では、36人の豪傑が3倍の108人に増やされ、さらに詳細な物語が織り込まれました。
反権力的な性質から、明清の時代には度々禁書とされましたが、広く愛読されてきました。特に、農民革命の文学として高く評価されています。
中国共産党の時代には、その投降主義的な内容を批判の対象とする動きもありましたが、文化大革命以後、政治的な評価は控えられるようになりました。
日本にも江戸時代の中期にこの小説が伝わり、講談や江戸文学に影響を与えました。
隋書(ずいしょ)
『隋書』は、中国の正史で、二十四史の一つです。全85巻から構成されており、唐の太宗の命によって魏徴(ぎちょう)、長孫無忌(ちょうそんむき)らが編纂(へんさん)しました。実際の執筆者には顔師古、孔穎達(くようだつ)らがいるとされています。
初めは隋王朝一代の歴史記録として「帝紀」5巻、「列伝」50巻からなるものでしたが、後に太宗の命によって于志寧(うしねい)ら数人が編纂した梁(りょう)、陳、北斉(ほくせい)、北周、隋の5王朝の諸制度(天文・刑法など)の記録10「志」30巻(『五代史志』とも言われる)が編入され、現在の体裁と巻数となりました。
636年に帝紀と列伝部分が成立し、656年に志の部分を編入して全体が完成しました。『隋書』は隋代および南北朝後半の制度・経済・学芸などを知る上で重要な史料となっています。特に、東夷伝(とういでん)倭国(わこく)条には、『日本書紀』にない遣隋使の記事が記録されていることでも知られています。
水経(すいけい)
『水経』(すいけい)は、中国の水系に関する古代の地理書です。主要な河川や水流について137条に分けて簡潔に記述しており、全文は約一万余字で、内容は簡略かつ統一性を欠いています。
また、水道の来歴や地区の地理状況に関する具体的な記述は少ないです。
撰者と成立年代に関しては諸説あり、明確な定説は存在しません。
『隋書』経籍志や『旧唐書』経籍志では、晋の郭璞が関与したと記されていますが、彼が実際の作者であるか、あるいは注釈者であるかについては異なる解釈があります。
『新唐書』芸文志や『通志』芸文略では、漢の桑欽が撰者とされ、郭璞が注者として言及されています。宋代以降、桑欽が撰者であるとの見解が主流となっています。
この『水経』は、北魏の酈道元によって基盤とされ、『水経注』という注釈書が編纂されました。
水経注(すいけいちゅう)
『水経注』(すいけいちゅう)は、中国北魏時代に酈道元(れきどうげん)によって著された地理書で、全40巻から成ります。
本書は、3世紀頃に記されたと考えられる『水経』という書に対する詳細な注釈として書かれました。『水経』は中国の主要な河川の源や経路、河口などを簡潔に記述したもので、その撰者については諸説あり、桑欽や郭璞とされることが多いです。
『水経注』は、『水経』に記載された137の河川よりもさらに詳細で、1252の河川の流路や、その流域の都邑(とゆう)、古跡、山水、伝説などが記述されています。
酈道元は、この書を編纂する際に、豊富な文献を引用し、また自身の遍歴した体験をもとにした記述を行いました。
これにより、漢代以来の地理的資料が集大成される形となり、その中には現在失われた多くの文献も引用されています。これらの理由から、『水経注』は文献学的にも非常に重要な価値を持つ書物として評価されています。
過去には、巻の一部が亡失したり、経文と注文が混同されるなどの問題が生じましたが、明清時代の学者たちによって調査・校合が行われ、復元の努力がなされました。
特に明の朱謀㙔が撰した『水経注箋』は、その後の復元作業の基盤となりました。
要するに、『水経注』は中国古代の水系や地理に関する情報を集大成した、文学的、歴史的、文献学的に非常に価値のある書物です。
菅原道真(すがわらのみちざね)
菅原道真(すがわらのみちざね、845年8月1日 – 903年3月26日)は、平安時代中期の著名な公卿、学者、漢詩人、政治家。
参議・菅原是善の三男として生まれ、官位は最終的に従二位・右大臣に至りました。贈り物としては正一位・太政大臣を追贈されました。
幼少期から詩歌に天分を示し、11歳で漢詩を作ったことでも知られています。
宇多天皇の時代にはその学問と忠誠心で重用され、遣唐使の中止を建議するなどの政治的な業績を残しました。
しかし、藤原時平の陰謀によって、大宰府の大宰員外帥として左遷され、大宰府で亡くなりました。
彼の死後は怨霊として恐れられ、清涼殿落雷事件などで日本三大怨霊の一人として知られるようになりました。
しかし、その後は天満天神として信仰の対象となり、学問の神として広く親しまれるようになりました。特に太宰府天満宮は彼を祀る主要な神社として知られています。
彼はまた、文学者としても「菅家文草」「菅家後集」などの詩文集や「日本三代実録」「類聚国史」などの編著を手がけました。小倉百人一首にも彼の詩が選ばれており、その文化的影響は非常に大きいです。
説苑(ぜいえん)
『説苑』(ぜいえん)は、中国古代の歴史故事集で、前漢の学者劉向(りゅうきょう)によって編纂されたものです。
本書は上古から漢代にかけての逸話や故事を集め、その中に教訓的な議論を織り交ぜています。
『説苑』の目的は、天子を戒めるための逸話を採録することで、時の成帝を諫める意図があったと言われています。
書の中身としては、古来の説話、寓話、逸話などが収められており、これにより儒教的な理念に基づいて歴史や政治を解釈していることが示されています。
当時、儒教は既に広く普及しており、その影響を色濃く反映しています。もともとは50編からなる作品でしたが、多くが散逸してしまい、現在は宋代の学者、曾鞏(そうきょう)によって復元された20巻の形で知られています。
また、劉向が『説苑』の真の著者であるか、あるいは編集者や校訂者であるかについては議論が存在します。
彼自身が『説苑雑事』という宮中の書物を校正し、『新苑』と名付けたと書いている記録があります。これに基づくと、彼は著者というよりも編者や校訂者と言えるでしょう。
さらに、『説苑』には多くの諸子百家の著述と一致する話が含まれていますが、原書が失われているため、この書でしか知ることができない話も存在します。
そのため、異伝や異聞を記録した貴重な資料として、現代でも学術的な価値を持っています。
西京雑記(せいけいざっき)
『西京雑記』(せいきょうざっき)は、中国の歴史的な逸話や故事を集めた書籍で、特に前漢時代の首都であった長安(現在の陝西省西安市)に関する内容が中心です。
この書は晋の葛洪(かっこう)によって編纂されたとされるが、原著者については前漢末の劉歆とも言われるなど、明確ではありません。
現行本は6巻から成り立っており、跋文や『隋書』などの古文献にもその存在が記されています。
しかし、その中での記述や編者に関する情報は一貫していないため、正確な著者や成立背景については諸説あります。
内容としては、長安に関する地理や風俗、制度などの情報が含まれており、特に未央宮、上林苑、昆明池などの場所に関する記録や、王昭君の有名な伝説などの逸話が収録されています。
また、出土した文物との符合や実証がなされる事柄もあり、史料的な価値を持つ一方、正確でない記述も含まれているため、歴史書としての評価は賛否が分かれるところです。
しかしながら、小説として見れば、短く簡潔な文章で興味深いエピソードが伝えられており、読者には魅力的に映ることでしょう。
醒世恒言(せいせいこうげん)
『醒世恒言』(せいせいこうげん)は、中国明代の口語章回小説集です。
編者は馮夢龍(ふうむりょう)で、彼が自宅に保管していた話本や擬話本のテキストを編集・増補して、各巻に1編ずつの計40編を収録して1627年に出版されました。
この作品は、同じような形で刊行された『喩世明言』や『警世通言』とともに「三言」として知られており、さらに凌濛初(りょうもうしょ)の編著の「二拍」と併せて「三言二拍」という総称で呼ばれています。
西廂記(せいそうき)
『西廂記』(せいそうき)は、中国元代の代表的な戯曲です。作者は王実甫で、全21幕から成り立っています。
この物語は、山西省の寺院で出会った旅の書生張君瑞と、亡き宰相の娘崔鶯鶯の恋愛を描いています。二人の恋は多くの困難を乗り越えて結ばれることとなります。
『西廂記』の原型は唐代の伝奇小説『鶯鶯伝』(または『会真記』)で、後に民間の語り物として変化しました。
金代には董解元によって『西廂記諸宮調』、通称『董西廂』として劇化され、王実甫はこの『董西廂』を基にして、元の戯曲としては非常に長い21幕の作品としてまとめ上げました。
通常、元曲は「折」と呼ばれる部分(幕に相当)から構成され、ほとんどの作品は4折から成り立っています。
しかし、『西廂記』は特例として21折から成り立っており、この長大な構成は他の元曲には見られません。また、歌の部分も複数の人物が歌う形式を取っています。
『西廂記』は、中国戯曲史上最高の傑作の一つとして認識され、多くの文学者から賞賛されてきました。
石林詩話(せきりんしわ)
《石林詩話》は、宋代の葉夢得によって書かれた詩論の著作です。
詩話は多数生まれましたが、歴史上の詩論として特に重要視される作品の中に位置づけられています。
詩話の中でも《滄浪詩話》や《歳寒堂詩話》、そして明代の《芸苑巵言》、清代の《随園詩話》や《甌北詩話》などと並ぶ、見落とすことのできない作品の一つとされています。
世説新語(せせつしんご)
『世説新語』は、中国南北朝時代の南朝宋の劉義慶によって編纂された、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた文言小説集です。
もともとは『世説』や『世説新書』という名称で呼ばれていましたが、後に『世説新語』という名称で知られるようになりました。
本書は、当時の名士たちの言動や思想を詳細に記録しており、時代の思潮や世相を反映しています。また、内容は36篇に分類されており、徳行、言語、政事、文学などのジャンルごとに整理されています。
『世説新語』は単なる逸話集というわけではなく、当時流行していた人物評論を中心に編集された点が特色となっています。特に、老荘思想に基づいた哲学的談論「清談」の記録としても非常に価値があります。
この書物は、文学作品としても高く評価されており、南朝梁の劉孝標が注釈を付けたことで、さらにその評価は高まりました。
劉孝標の注は、本文を補足し、不明瞭な部分を解説するだけでなく、多くの散逸した書物からの引用も含まれており、六朝時代の名注として高く評価されています。
日本においても『世説新語』は広く読まれ、影響を及ぼしました。
明代の中国で編纂された『世説新語補』は、江戸時代の日本に紹介され、和刻本も出版されました。
世説新語補(せせつしんごほ)
『世説新語』は、もともと梁の劉孝標が異聞を集めて注を作成し、唐代まで「世説」や「世説新書」として知られていました。
しかし、日本で流行した版は、明代に補足された『世説新語補』という20巻本で、この版は元の3巻本から内容が大きく変わり、後の時代からの挿話が多く追加されています。
説郛(せっぷ)
『説郛』(せっぷ)は、中国明初の叢書で、陶宗儀により編纂されました。もともと100巻から成るこの叢書は、さまざまな時代の書物を集めたもので、特に宋・元の著作が多く収録されています。巻数や収録内容は、版本によって異なります。
題名の『説郛』は揚雄『法言』の一節に由来しており、「郛」とは城壁を意味します。収録されている書物の内容は随筆、筆記、説話などの雑録が中心で、逸書も含まれています。
もともとは写本で伝えられ、明末まで印刷されることはありませんでした。しかし、民国時代に張宗祥が複数の写本を基に校勘を行い、1927年に上海商務印書館から活字で出版されました。この版は涵芬楼本とも呼ばれます。
明末の崇禎年間には、陶珽が別の版を出版しました。この版は『重較説郛』として知られ、元の100巻本にさらに多くの書物を加えたものですが、その校訂には精密さが欠けるとの意見もあります。
近年、上海古籍出版社から『説郛三種』という、張宗祥の本と陶珽の120巻本、および陶珽の『説郛続』を合わせた版も出版されました。
説文解字(せつもんかいじ)
『説文解字』(せつもんかいじ)は、中国の最古の部首別漢字字典で、後漢の許慎(30〜124)によって編纂されました。
この字書は15巻から成り、9353の小篆文字を記録し、これを540の部首に分類しています。略して『説文』とも称されます。
許慎は文字の成立の原理として「六書」(指事・象形・形声・会意・転注・仮借)を用いて各漢字の字形や字義を解説しました。
この作業によって、漢字の成り立ちや本義が明らかにされ、その価値は現代においても高いものとして認識されています。
『説文解字』はその後の字書の基礎となり、多くの解説書や研究がなされています。特に、清の段玉裁による『説文解字注』は、この字典に対する重要な注釈書として知られています。
なお、『説文解字』の背景には、前漢の時代からの文字や経書に関する学問の動向や、許慎が古文学の正統性を示すために篆書や古文を使用した経緯があります。
山海経(せんがいきょう)
『山海経』(せんがいきょう)は、中国古代の地理書で、戦国時代から漢代(前4世紀 – 3世紀頃)に成立したと考えられており、中国で最古の地理書とされます。
この書は、伝えられるところによれば禹とその臣、伯益によって編纂されたとされていますが、実際には多くの著者による寄せ集めとされています。
内容的には、現代の地理書とは異なり、古代中国人の伝説的な地理認識や自然観、さらには神話や伝説が織り込まれています。
各地の動植物、鉱物などの物産を記述する中で、多くの妖怪や神々の情報も紹介されており、これらの記述が古代中国神話の基礎資料として非常に重要な役割を果たしています。
もともと『山海経』は絵地図とその解説文という形式で『山海図経』と呼ばれていましたが、絵地図部分は古くに失われ、現存するものは文章のみです。
現在残る画像や図は、『山海経』の文章から後世の人々が再構築したもので、その正確性は確定されていません。
総編数や総巻数は時代によって異なりますが、現行のものは、西晋の郭璞(かくはく)による注釈が付されており、5部18巻からなっています。
河南省の洛陽近郊を中心に述べられている部分は、本書の中で最も古い部分とされ、中国古代の原始的な山岳信仰の情報を伝えています。
日本には9世紀末に伝わり、江戸時代には刊本として刊行され、その後、いくつかの和刻本が出版されました。日本では、この書は戯作の素材としても用いられるなど、多方面で影響を与えました。
銭起(せんき)
銭起(せんき、710?-782年)は、中国の中唐期の詩人であり、字は仲文という。彼は呉興県(浙江省)の出身で、天宝10載(751年)に進士に及第した。
彼のキャリアには、秘書省校書郎、藍田県(陝西省)の県尉、考功郎中、太清宮使、翰林学士などの職を歴任しています。
詩人としては盛唐から中唐への転換期、特に代宗の大暦年間(766~779)において活躍し、「大暦十才子」の1人として数えられる存在です。
銭起は五言詩形を得意としており、詩風は感傷的で独自の味わいがあります。
特に叙景の詩や送別・贈酬の作には秀作が多く、同じ「大暦十才子」の1人である郎士元とともに「銭郎」と並称されることが多い。彼の代表作としては、『銭考功集』という詩集が10巻残されています。
戦国策(せんごくさく)
『戦国策』は、中国の戦国時代の遊説の士たちが各国を遊説しながら用いた策略や言説を国別に収録した書物です。
この書物の時代は、周の安王から秦の始皇帝までの約250年間をカバーしており、具体的な著者は不明です。
前漢末期、劉向が天子の書庫で蔵書を整理する際、様々な竹簡の断片を発見しました。
これらの内容は、戦国時代の遊説の士たちの策略や逸話を中心としており、劉向はこれらを国別、ほぼ年代順に編纂して『戦国策』と命名しました。この書物は後に33篇(章)にまとめられました。
後漢の時代、高誘がこの書に注釈を付けましたが、全体のうち8篇しか現存していません。北宋時代には、曽鞏が多数の異本を基に校訂を行い、現行の33篇のテキストを復元しました。
一方、宋代の鮑彪も独自の校訂を行い、10巻本を作成しています。
日本においては、『戦国策』は9世紀後半に既に知られていました。特に江戸時代には広く読まれ、横田惟孝(乾山)による『戦国策正解』という校注本が定本として評価されました。
この書物の内容は、策略や権謀術策が主であり、実際の歴史的事実よりもその技巧や文章の優れた表現が評価されてきました。
文章の美しさや巧妙さは、漢代の大史家、司馬遷の『史記』の原型とも評され、宋の文豪、蘇東坡など多くの評論家や文学者に絶賛されました。
なお、1973年に中国の長沙馬王堆の墓から出土した帛書には、『戦国策』の編纂よりも前の内容と思われる記述が含まれており、『戦国策』の原形としての価値があると考えられています。
禅源諸詮集都序(ぜんげんしょせんしゅうとじょ)
『禅源諸詮集都序(ぜんげんしょせんしゅうとじょ)』は、唐代の中国の僧、圭峰宗密(780―841)によって編集された『禅源諸詮集』の序文「都序」部分で、この部分だけが現存しています。
宗密は、荷沢宗の相承を受けつつ、華厳宗の第5祖でもありました。彼は特に『円覚経』を重視し、華厳宗教義を基盤として禅の体験と近づける「教禅一致説」を展開しました。
この『都序』はその教禅一致説を体系的に示す重要な文献として、仏教思想史上において特筆すべき位置を占めます。
『禅源諸詮集』全体は元々100巻以上存在したとされていますが、現存しているのは「都序」のみで、『大正新脩大蔵経』第48巻「諸宗部」5に収録されています。
宣宗(せんそう)
宣宗は、東アジアの廟号の一つであり、特に唐朝の第19代皇帝として知られています。彼は憲宗の十三男で、穆宗の弟、武宗の叔父に位置します。治世には一定の成果を挙げ、「小太宗」とも称されました。
しかし、戦乱により実録が失われてしまったため、彼の具体的な業績の詳細は伝わっていません。また、『編年綱目』によれば、高麗の太祖王建の祖父、王帝建は宣宗の庶子であったとされています。
なお、宣宗という廟号は他にも用いられており、例として、明の宣徳帝(在位1425-1435年、姓名は朱瞻基)も「宣宗」という廟号で知られています。
宣和画譜(せんながふ)
『宣和画譜』(せんながふ)は、中国北宋末期、徽宗の時代に内府で所蔵していた絵画の著録です。宣和2年(1120年)に序があり、全20巻から成り立っています。
この著録は、三国時代から北宋に至るまでの画家231人と作品6396点を10の部門に分け、それぞれの部門の初めには簡潔な画論が添えられ、各画家には小伝が記されています。
徽宗自身が蒐集した絵画を整理し、内府に収蔵した際に編纂されました。徽宗の撰とも言われていますが、複数の下臣が編集した可能性も高いとされています。この著録は、資料としての価値が非常に高く、叙論や小伝を通じて、当時の絵画観や評価を知ることができます。
特に、呉道子に関する徽宗の評価や、他の著名な画家に対する言及など、注目すべき内容が多く含まれています。さらに、この著録は『津逮秘書』や『画史叢書』などの文献にも収められています。
潜夫論(せんぷろん)
『潜夫論』(せんぷろん)は、中国後漢末期の儒者、王符による10巻36篇から成る著書です。王符は甘粛省の安定郡臨涇に生まれ、妾腹の子としての出生から社会になじむことができず、仕官することはありませんでした。
学者として馬融や張衡との交流があり、世俗や政界の問題に憤りを感じて隠居し、この書を著しました。
「潜夫」という言葉は「在野の士」を意味し、その名の通り、王符は官僚としての昇進を果たせなかったが、学問や道徳を重視し、人民教化の重要性を説きました。
その中で、時代の社会や政界を批判し、迷信や占いを否定した立場を取っています。
王符の思考は、国の基盤は民であるという孟子の民本思想を元に、天道や天命の考え方に関しては、道家や荀子の学説を引き継ぎながら発展させました。
『後漢書』では、王符の思想が王充や仲長統と共通していると認められ、列伝第39にまとめられています。
雑阿含経(ぞうあごんきょう)
『雑阿含経』(ぞうあごんきょう)は、仏教の漢訳『阿含経』の一つで、劉宋の求那跋陀羅による訳であり、50巻から成り立っています。
この経は、他の阿含経に収められなかったものを集めたもので、「雑」という名前が示すように、元々の主題別のまとまりが崩れている特徴があります。
全体で1362経があり、原始仏教の古い思想を伝えています。また、この経はパーリ語経典の「相応部」(サンユッタ・ニカーヤ)に相当するもので、大正新脩大蔵経にはNo99として収録されています。
曾鞏(そうきょう)
曾鞏(そう きょう、1019年9月30日 – 1083年4月30日)は、中国北宋時代の著名な文学者であり、散文家として特に知られています。字(あざな)は子固といい、江西省の南豊出身で「南豊先生」とも呼ばれました。
彼は若いころから文才を示し、12歳の時に『六論』を著述し、その後、欧陽脩の主催する科挙試験に合格したことで名を馳せました。地方や中央での官職を歴任し、特に民政において優れた治績を残しました。
曾鞏の文章は緻密で地味だが、堅実な議論の展開が特徴であり、特に書籍解題には定評があります。後の清代、特に桐城派から高く評価されました。
彼はまた、古典籍の整理や校訂にも尽力し、『戦国策』33篇本の再校訂を手がけるなど、古代文献の保存にも貢献しました。
代表作としては、詩文集『元豊類藁』や『戦国策目録の序』、『墨池の記』などが挙げられます。彼と王安石は遠縁の姻戚関係にあり、生涯にわたる深い交友関係が続きましたが、政策に関しては必ずしも意見が一致していたわけではありませんでした。
宋史(そうし)
『宋史』は、中国の正史(二十四史)の一部として、元代に編纂された歴史書です。宋代(北宋・南宋)の紀事を扱い、計496巻から成り立っています。具体的には、本紀47巻、志162巻、表32巻、列伝255巻が含まれます。
この書は、元の中書右丞相であったトクト(脱脱)によって1345年に完成しましたが、実際の編纂の主導は欧陽玄が行ったとされます。
編纂の背景には、元朝が宋代の後継と位置付けられたこと、そして多くの意見や論争があったことが挙げられます。
元は南宋を滅ぼし、中国全土を支配した王朝であり、その位置づけをどうするかには多くの議論があったのです。また、元朝成立以降、『宋史』の編纂計画は何度も立案されましたが、意見の不一致や意見調整の難しさから実現が難航していました。
宋代自体は史料が非常に豊富で、その取捨選択や編纂作業には膨大な時間と労力がかかったと考えられます。このため、短期間での編纂作業や、他の歴史書との並行作業が影響して、内容に矛盾や不一致が生じることもありました。
しかし、多くの宋代の国史や実録が散逸してしまった現在、『宋史』はその時代の貴重な史料として非常に高い価値を持っています。
宋子(そうし)
宋子は、古代中国戦国時代の思想家で、諸子百家の一人として知られます。彼の出身は宋国で、同時代の孟子と活動を共にしていました。
彼の所属する「家」は明確ではありませんが、道家、名家、墨家、雑家、小説家などと見られることがあります。
彼は人間の心や感情に関する学説を持ち、平和主義を説いていました。尹文とともに宋尹学派を構成していたことも知られています。
彼の著作は現存していませんが、いくつかの文献にその学説や言行が断片的に記録されています。『漢書』には彼の書として『宋子』十八篇の存在が確認されており、『荘子』には彼が説いた「白心」という学説の記録があります。
宋子の主な学説として「見侮不辱」があり、これは他者から侮蔑されてもそれを「辱」と感じない、または感じることがないという考え方です。
彼はこれを実践することで、戦乱の原因となる報復の心から解放され、戦乱を断ち切ることができると考えていました。
評価としては、『荘子』では彼の思想を一部評価しつつも、完璧な思想ではないとしています。一方『荀子』では彼の学説を批判している箇所がありますが、『孟子』には孟子と宋子の友情が描かれ、両者の間に影響関係があったともされています。
荘子(そうじ/そうし)
出典:wiki(荘子)
荘子は紀元前369年頃から紀元前286年頃まで活動した中国の思想家で、彼の名前は彼の著作である『荘子』からも知られています。
荘子は道教の始祖の一人とされており、彼の思想は無為自然、一切斉同、価値観や尺度の相対性を強く説くものとして特徴づけられます。
「無為自然」は、事物が自然の流れに従って行動するという考え方で、人間の人工的な干渉や操作を否定します。
「一切斉同」は、すべてのものが本質的には同じであるという観念を指します。これらの考え方は、物事に固定した価値や意味を与えるのではなく、それらが状況や視点によって変わりうるとする相対性の理念につながります。
荘子の思想は、その著作『荘子』内の様々な寓話や説話を通じて展開されます。最も有名な説話は「胡蝶の夢」で、これは夢の中で蝶となり自由に飛び回る男が夢から覚めて人間に戻るという話です。
この話は、我々が物事を認識する基準や自我の確固とした存在を問い直すという荘子の視点を象徴しています。
彼の思想は、政治や社会を離れた、自然と一体となり、自由に生きるという考え方に特徴づけられます。
このような思想は、荘子が自身の自由を保つために楚の威王からの高官への招聘を断ったというエピソードからもうかがうことができます。
宋之問(そうしもん)
宋之問(そうしもん、656年頃 – 712年頃)は、初唐時代の著名な詩人であり、字を延清といった。彼は山西汾州出身で、特に五言詩に優れていたとされる。
若い頃、則天武后に仕え、その詩才を認められて宮廷詩人として名を馳せた。沈佺期とともに活躍し、二人は「沈宋」として併称された。その功績として、近体詩の律詩の形式を確立・完成させたことが挙げられる。
宋之問は則天武后の寵臣、張易之兄弟や武三思らの佞臣に近づき、そのため、時に批判も受けた。実際、彼は何度か左遷されたり、罪を着せられたりした経験がある。
睿宗の時代には欽州に流罪となり、その後、玄宗が即位すると、罪を理由に自殺を命じられた。
品性については評価が分かれる部分もあり、一方で彼の詩は非常に人気があり、都で広く愛唱されたとされる。
特に、彼と沈佺期は律詩の形式を完成させた功績から、「沈宋」として称えられ、中国文学史において重要な位置を占めている。
宋書(そうしょ)
『宋書』は、中国南朝の宋の60年間を扱った正史で、全100巻からなる紀伝体の歴史書です。著者は沈約で、南朝斉の武帝の勅命を受けて編纂されました。この作品は二十四史の一部として位置づけられています。
元々、南朝宋の時期に何承天、山謙之、蘇宝生、徐爰らによって『宋書』が書かれており、沈約はこれらを基に編纂を行いました。
本紀と列伝の部分は約1年で完成しましたが、志の部分の編纂には10年以上の時間がかかりました。南朝宋が滅亡した直後の時期に編纂されたため、多くの同時代資料が収録されており、資料としての価値は非常に高いです。
特に日本に関して、『宋書』の「夷蛮伝」には、倭の五王として知られる日本の支配者からの朝貢が記されています。
この記述は、この時代の日本の貴重な情報源となっています。ただし、この「夷蛮伝」は古くに散逸してしまい、10世紀の宋代に補完されたとの説があります。
『宋書』は、詳細な叙述や数多くの収録資料により、中国南朝の歴史や文化を理解するための重要な資料となっています。
曹松(そうしょう)
曹松(そうしょう、830年? – 901年?)は、中国・唐代末期の詩人で、字は夢徴といいます。
彼は舒州桐城県の出身で、若いころに戦乱から逃れるために洪州の西山で隠遁生活を送りました。70歳を過ぎたときに科挙の進士試験に合格しましたが、その後まもなく他界したと言われています。
特に彼の詩「己亥歳(きがい の とし)」は広く知られており、その中の結句「一将功成りて万骨枯る」は、一人の将軍が成功を収める背後に多くの兵士の犠牲があることを指摘しており、戦争の悲しみや愚かさを伝える言葉として広く引用されています。
曹植(そうしょく)
曹植は、中国の三国時代、魏の文学者であり、その詩や文章は極めて評価されています。
彼は曹操の息子で、曹丕と後継者の座を争いましたが、結果としてその地位を手に入れることができず、政治の裏で数多くの困難や迫害を経験しました。
- 生涯と家族背景:
- 曹操の五男で、生母は卞氏。同母の兄に曹丕(魏の初代皇帝)がいる。
- 子に曹苗、曹志がいる。
- 幼少時から文才を示し、父曹操から特別な寵愛を受けていた。
- 文学的業績:
- 建安文学を代表する詩人の一人。
- 「詩聖」として、高い評価を受けている。
- 洛陽の貴公子、雄壮な武者、友情、哀愁、庶民の生活など、多岐にわたるテーマで詩を詠んでいる。
- 政治的な背景:
- 曹操の死後、曹丕の時代に側近と共に政治的な迫害を受けた。
- 曹叡(明帝)の治世下で、政治的地位の向上を求めたが、結果として成功しなかった。
- その他の情報:
- 酒好きで、それが原因で曹操を怒らせる事件があった。
- 若い頃、多くの戦役に参加しており、兄たちと同じように戦場での経験を持っている。
- 自らの文学的な評価を軽んじ、実際の功績や善政を求めていた。
全体として、曹植はその才能と困難な境遇を通じて、多くの優れた詩や文章を中国文学に残しました。
彼の作品は、情熱、哀愁、人々の日常の感情など、さまざまなテーマを通じて人々の心に響くものとなっています。
捜神記(そうじんき)
『捜神記』(そうじんき)は、中国の六朝時代に成立した志怪小説集。東晋の歴史家である干宝(かんぽう)が4世紀に著した20巻からなる作品で、元々は30巻とされているが、逸數し今日の本は後の時代に再編集されたものである。
志怪小説とは、猿や鳥などの動物や仙人、神様を使って語られる短編小説のことを指す。
『捜神記』は、神仙、方士、占卜、風神、雷神などの天地の神々、吉兆や凶兆、孝子烈女、妖怪、異婚異産、死者の再生、幽鬼幽界、動物の報恩復仇など、幅広い内容の説話を収録しており、中国の説話の宝庫とも評される。これらの説話は、後世の小説や伝奇に多大な影響を与えている。
著者の干宝は、東晋の政治家・文人として活動し、捜神記を著述する背景には、身近な奇怪な出来事や家族の体験が影響している。
特に彼の家族が経験した超常的な出来事、例えば死んだ父が侍女のために食料を持ってきたり、兄が病死した後に蘇ったりするなどの奇異な体験が、本書の執筆のきっかけとされている。
現在伝わる『捜神記』は主に20巻本だが、他にも八巻本や一巻本が存在する。特に八巻本や一巻本は、文中の内容や人名が20巻本とは異なる部分がある。
一方、『漢書五行志』との関連で述べられることもあるが、『捜神記』は神や鬼、動植物の怪異に焦点を当てているのに対して、『漢書五行志』は五行思想に基づく天変地異の記録であり、両者のテーマや内容は異なる。
要するに、『捜神記』は、中国古代の奇異や超常の説話を集めた志怪小説集であり、文学史や説話学上で高く評価されている重要な作品である。
曹操(そうそう)
曹操は中国後漢末期の武将・政治家で、詩人・兵法家としても知られる重要な人物です。
彼は三国時代の魏王朝の基礎を築きました。
彼の生涯を簡潔にまとめると以下のようになります。
- 155年、沛国に生まれる。曹嵩の子で、宦官曹騰の養子となりました。
- 若くして官職に就き、後に黄巾の乱を平定する功績を上げました。
- 官渡の戦いで袁紹を破り、中国の大部分を統一する基盤を築きました。
- 208年、赤壁の戦いで孫権・劉備の連合軍に敗れました。
- 政治家としての才能に加え、文学者としても知られ、多くの詩を残しました。
羅貫中の小説『三国志演義』では、彼は悪役として描写され、これが伝統的な評価の一因となっている。
しかし、近年、中国では彼の再評価が進められ、多面的な人物としての評価が行われています。
彼は治世の能臣であり、乱世の英雄とも称される。彼の統治時代は、政治・文化の両面で多くの業績を残し、その影響は後代にも続きました。
宋濂(そうれん)
宋濂(1310年11月4日 – 1381年6月12日)は、中国元末明初の政治家、儒学者、文学者であり、浙江省の浦江出身であった。
彼の字は景濂で、号は潜渓。若いころから学問を好み、儒学に精通して成長しました。
貧しい家庭に生まれながら、彼は自らの努力で学識を深め、義塾の教師として教えるまでになりました。当時、浙東四先生のひとりとしての名声を確立していました。
朱元璋(後の洪武帝)からの招聘を受け、明を建国する際の要職に就きました。彼は太子に儒教の経典を教え、明代の礼楽制度を整備しました。
特に、洪武帝の命を受けて『元史』の編纂を主導し、翰林学士承旨や知制誥の要職にも就きました。
しかし、孫の宋慎が政治的な事件に巻き込まれたことから、家族全員が流罪となり、彼自身は夔州で病死しました。
文学や儒教の分野では、宋濂は当時の最も優れた学者の一人と見なされていました。唐・宋代の文を手本にし、多くの著作を残しました。
その著作は伝記や散文が主で、質朴で簡潔ながら、おおらかで優雅な面も持っていました。朱元璋からは「開国文臣之首」と称賛され、劉基からは「当今文章第一」と賞賛されました。
彼の主要な著作には『宋学士全集』、『浦陽人物記』、『洪武聖政記』などがあります。また、明代初期の有名な学者方孝孺を弟子に持っていました。
滄浪詩話(そうろうしわ)
『滄浪詩話』(そうろうしわ)は、中国の宋代に厳羽によって書かれた詩論書で、1巻から成り立っています。この書名は、厳羽の号「滄浪逋客」にちなんでいます。
書の内容は、詩弁・詩体・詩法・詩評・考証の五篇に分かれ、非常に体系的な構成を持つのが特徴です。
従来の詩話がより随想的で非体系的だったのに対し、『滄浪詩話』は理論的であり、詩の原理や形式規則、修辞技法、詩人や作品の評価、作品の考証などをきちんと論じています。
厳羽は禅の思想を基に詩を論じ、詩には「別材」「別趣」があると主張しています。また、詩作における「妙悟」という境地を重視し、詩人の真の才能は天賦の才であると説いています。
彼は李白や杜甫などの盛唐の詩を特に評価し、その「興趣」を詩の理想として位置づけています。さらに、『楚辞』や漢、魏、晋の詩を高く評価し、時代の流れとともに盛唐の詩を中心とした詩風を提唱しています。
この書は、その後の時代にも影響を与え、明代や清代の詩論にも大きく影響を与えました。特に明の公安派の性霊説や清の王士禎の神韻説は、『滄浪詩話』の延長線上にあると言えます。
後の時代にも読まれ続けており、注釈本も多数出版されています。
続高僧伝(ぞくこうそうでん)
『続高僧伝』は、唐の道宣によって撰された、中国の高僧の伝記集です。
この書は、梁の慧皎の『高僧伝』の続きとして、梁の初めから唐の初めにかけての約160年間の僧伝を収録しています。貞観19年(645年)の成立とされています。
別名では『唐高僧伝(唐伝)』とも呼ばれます。成立時には正伝340名、附伝160名、合計500名の僧侶の伝記が収録されたと自序に記述されているものの、現行の本には700名余りの伝記が含まれています。
この点を裏付けるように、664年に亡くなった玄奘の伝記も完結して収められていることが確認できます。
楚辞(そじ)
『楚辞』(そじ)は、中国戦国時代の楚地方で謡われた辞と呼ばれる韻文の形式、及びそれらを集成した詩集の名称です。
全17巻から成り立ち、屈原の『離騒』などが代表的な作品として知られます。この詩集は、古代南方の空想的でロマン的な文化を体現しており、北方の『詩経』とは対照的に位置付けられます。
その内容には南方的な風土や神話・伝説が取り入れられ、空想性と一句六言のリズムが特徴的です。
書物としての『楚辞』の成立は、前漢末期に劉向によってまとめられたもので、後に後漢の王逸が自らの詩を追加して『楚辞章句』として編集されました。この『楚辞章句』が、現在伝わる最古の『楚辞』とされています。
屈原の時代から、詩は作者名とともに記録されるようになりました。内容的には、古い楚の祭祀歌が抒情詩として改修され、神話や伝説の要素が豊富に盛り込まれています。
蘇洵(そじゅん)
蘇洵(そじゅん、1009-1066)は、中国北宋時代の著名な文人で、唐宋八大家の一人と称される。彼の字は明允(めいいん)、また老翁井という泉のそばに亭を結んだことから老泉と称された。
彼は蘇軾(そしょく)、蘇轍(そてつ)の父としても知られ、父子三人は「三蘇」と称される。蘇軾を大蘇、蘇轍を小蘇というのに対して、蘇洵は老蘇と呼ばれています。
彼は現在の四川省眉山市東坡区、旧称眉州眉山県の出身。若い頃は学問をあまり重んじず、無頼の仲間との交遊を楽しんでいましたが、27歳頃から真剣に学問を再開し、やがて六経百家の学に通じるようになりました。文章や書道の分野でもその才能を発揮し、名声を博しました。
欧陽脩や宰相の韓琦など、当時の著名な人物たちからもその才能を高く評価され、秘書省校書郎として朝廷に仕えることとなりました。
また、姚闢とともに「太常因革礼」を編集するなどの業績もあります。彼の政治思想として、北宋が遼との間で平和のために歳幣を送っていたことに対して批判的であり、内政の強化と兵の規律の確立を訴えていました。
その文章は独特のスタイルを持ち、先秦の風を感じさせるもので、時代を超えて多くの学者たちから評価されています。
彼は王安石の新法を実施する前に亡くなりましたが、彼の著作はその後の時代にも影響を与え、特に「弁姦論」は新法・旧法の争いの中で大きな注目を浴びました。
まとめると、蘇洵は北宋時代の文人として、その文章や政治思想で大きな影響を与えた人物であり、後世にもその名は高く評価されています。
蘇軾(そしょく)
蘇軾(そしょく、1036年 – 1101年)は、中国北宋時代の著名な政治家、文学者、書家、画家であった。
彼は、蘇洵の長男として四川省の眉山県に生まれ、弟は蘇轍。蘇軾は宋代を代表する文人官僚として知られ、その生涯は政争の中で多くの困難に直面しながらも、その明朗で博大な人格は常に人々に愛され、詩文は高く評価されている。
彼の文学的な業績は、『蘇東坡全集』や『蘇軾全集校注』などに集められており、その中でも「赤壁の賦」は特に有名である。また、蘇軾は音楽にも通じ、中国を代表する書家としても知られている。
彼の号は「東坡居士」や「蘇東坡」として、また字は「子瞻」として広く親しまれている。若い頃、科挙や制科といった文官試験に合格し、鳳翔府の事務官としてのキャリアをスタート。
しかし、政治の世界では新法の推進に反対し、その結果として地方官や知事としての役職に就くこととなった。44歳のとき、詩文による朝政の批判が原因で投獄されるも、後に恩赦を受けて黄州に流された。
晩年は、新法の復活に伴い、恵州や海南島に流されるが、66歳で生涯を閉じる前に大陸に帰還を許された。彼の作品は、その流れるような詩と達意を旨とする文で知られ、「唐宋八大家」の一人として数えられている。
祖庭事苑(そていじえん)
祖庭事苑(そていじえん)は、中国の字典で、8巻からなります。宋の時代に睦庵善卿によって編纂され、1098~1110年に刊行されました。
この字典は、禅宗関連の書籍から熟語を約2400語以上採録し、それぞれの言葉の典拠を示し、註釈を加えています。
蘇轍(そてつ)
蘇轍(そてつ、1039年3月23日 – 1112年10月25日)は、中国北宋の政治家、文学者であり、蘇洵の次男、蘇軾の三歳下の弟として知られます。
字は子由、号は潁浜遺老といい、彼は眉州眉山県(現在の四川省眉山市東坡区)に生まれました。
19歳の時に進士に及第し、官僚生活に入ります。しかし、王安石の新法に反対したため、初めは不遇な生活を送りました。
神宗の時代には新法に反対する立場から、烏台の詩案で兄の蘇軾とともに罪を得て、流罪となったこともありました。その後、哲宗が即位すると中央政府で昇進し、多くの重要な役職を歴任しましたが、しばしば上書して意見を述べたため、再度左遷されることとなりました。
彼は文学者としても非常に優れており、「唐宋八大家」の一人に数えられます。蘇轍の詩は、沈静で簡潔な人柄を反映したもので、哲学や文学に関する多くの著作があり、『欒城集』や『道徳経解』など数々の作品を残しました。
特に兄の蘇軾を深く慕い、兄が亡くなった際の墓誌銘「亡兄子瞻端明墓誌銘」を書いており、兄弟の深い絆が伺えます。
蘇武集(そぶしゅう)
蘇武は、前漢時代の人物で、字は子卿といいます。彼の父は衛尉の蘇建で、子には蘇元と蘇通国がいます。蘇武には兄として蘇嘉、そして弟として蘇賢がいました。
孫子(そんし)
孫子とは、中国の春秋時代および戦国時代の武将や軍略家の尊称、およびそれに関連する兵法書の名称です。
具体的には以下のように理解できます。
- 孫武:春秋時代の呉の武将。闔閭に仕えて楚を破りました。彼が著したとされる兵法書は、一般に『孫子』として知られており、かつては『呉孫子』と称されていました。
- 孫臏:戦国時代の斉の軍師。魏を破り大功をあげました。彼も『孫子』という兵法書を著したと伝えられ、この書は長らく失われていましたが、近年山東省での発掘によって再発見され、『孫臏兵法』として知られています。
- その他、孫子という名称には戦国時代の儒学者孫卿や、南北朝時代の数学者孫子(孫子算経の著者)も含まれます。
この兵法書は、戦略や人間の使い方、国家経営に関する非凡な見解を示しており、古来から『呉子』と共に「孫呉の兵法」として称賛されてきました。
孫綽(そんしゃく)
孫綽(そんしゃく、生年:314、没年:371)は、六朝時代の東晋の文学者として知られ、太原中都(現在の山西省)の出身です。
字は興公といい、官途では廷尉卿から著作郎まで昇進しました。彼はその文才で当時の名を馳せ、特に『天台山賦』は魏、晋時代の代表的な辞賦として評価されています。
また、老荘の思想を取り入れた「玄言詩」も作成しています。
一方、三国時代の呉にも同名の孫綽が存在し、孫権の時代に仕え、最終的には安民都尉まで昇進しました。
彼の5人の子は孫休が帝位についた際、一斉に侯に任じられ、「一門五侯」と称されました。その権勢は皇帝を圧倒するほどでしたが、同年中に孫休により誅殺され、三族ともに滅ぼされました。
さらに、玄学の文脈での孫綽の言及があり、彼の〈喩道論〉が仏教との関連性を示唆しています。
この理論は仏が道を体得しながらも、衆生に感応して教え導くものとして、儒家、仏教、道家の一致の理論的基盤を提供しています。