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四字熟語の出典・典拠一覧(解説付き)

四字熟語の典拠・出典一覧

「な行」四字熟語の典拠・出典

「な」四字熟語の典拠・出典
夏目漱石 南柯太守伝 難経
南史 南斉書 南楚新聞
南唐近事
「に」四字熟語の典拠・出典
二刻拍案驚奇 日本外史 日本書紀
仁王経
「ね」四字熟語の典拠・出典
涅槃経

夏目漱石(なつめそうせき)

1912年9月13日に撮影された夏目漱石(明治天皇の大喪の礼)

夏目漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日 – 1916年12月9日)は、明治から大正にかけての日本の小説家、教師、評論家、英文学者、俳人です。本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)で、俳号は愚陀仏。東京都新宿区の牛込に生まれました。生後すぐに里子として出され、その後も養子に出されるなど、不遇の幼時を過ごしました。

帝国大学(現在の東京大学)英文科を卒業後、愛媛県の松山中学校や熊本の第五高等学校で教鞭をとりました。その後、文部省留学生としてイギリスに留学し、帰国後は東京帝国大学で英文学を講じました。

彼の文学活動は多岐にわたりますが、特に『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』などの作品で知られています。漱石は明治の代表的文学者として、日本の千円紙幣の肖像にも採用されました。また、漱石の私邸での会合は「木曜会」として知られ、多くの門下生や知人が集まりました。彼の著名な門下には、小宮豊隆や森田草平、寺田寅彦、鈴木三重吉などがいます。

漱石は作家としてのみならず、東西両洋の知性と感性を備えた知識人としても尊敬されました。そのため、彼に関する研究や回顧録は多数あり、妻の夏目鏡子の『漱石の思ひ出』や他の研究書が読者に深い洞察を提供しています。


南柯太守伝(なんかたいしゅでん)

南柯太守伝(なんかたいしゅでん)は、中国中唐時代の伝奇小説で、李公佐によって書かれました。この物語は、淳于ふんという侠客が槐の木の下で昼寝をしていると、夢の中でアリの国へ行き、国王の女婿となり、南柯郡の太守に任命されて30年を過ごすという内容です。

この物語は、785~804年ごろの貞元から847~859年の大中年間に生きた李公佐によって、貞元18年(802年)に成立したとされます。同じ系統の作品としては、沈揮済の『枕中記』があります。さらに、この作品は後世に多大な影響を及ぼし、明末の湯顕祖の戯曲『南柯記』や、日本の滝沢馬琴の読本『三七全伝南柯夢』などがそれに基づいて作られました。


難経(なんぎょう)

理論

『難経』(なんぎょう)は、古代中国の医学書で、正式な名称は『黄帝八十一難経』です。この書の成立年代や著者は明確ではありませんが、後漢以降の作と考えられています。一部では、歴史的に有名な医師・扁鵲が著者だともされていますが、明確な根拠は乏しいとされています。西晋の皇甫謐の『帝王世紀』によれば、黄帝が雷公と岐伯に命じて経脈を論じ、難経を作成させたとされています。

内容としては、『黄帝内経』に基づきながらも、鍼法に特化して体系化されたものであり、脈法や脈論が中心となっています。具体的な臨床の問題や経絡治療に関する内容が主で、特に難しい説を問答形式で解説しています。このため、「難」という名前が付けられたとされており、「難」は疑問を意味する言葉として使用されています。

また、『難経』は脈の理論を基にして生命論や臓腑論とも深く関わっています。特に三焦の生理作用に関する説明は、他の医学書とは異なる内容となっています。

原本は早い時期に失われ、現在存在するものは元以降の写本や注釈書とされています。この『難経』は、鍼法の臨床に関する内容が豊富であり、特に経絡治療を専門とする者にとっては、非常に重要な参考文献となっています。


南史(なんし)

二十四史

二十四史

『南史』(なんし)は、中国の正史であり、二十四史の一つです。

この書は唐の李延寿により撰述され、高宗(649年~683年)の時に完成されました。元々は李大師が編纂を開始し、その子の李延寿が完成させました。

内容としては、南北朝時代(439年 – 589年)の南朝の国家、すなわち宋・斉・梁・陳の歴史が記されています。全体は80巻で構成され、その内訳は本紀10巻と列伝70巻です。

詔令や上奏文の多くは削除され、主に叙事に重点が置かれています。

そのため、総量としては『宋書』・『南斉書』・『梁書』・『陳書』の合計の半分ほどですが、これらの断代史には含まれていない記述も存在し、特に恩倖伝の増補などが顕著に見られます。

『南史』は、それまでの南朝北朝の歴史が自国中心的であったのを修正し、双方の歴史を対照的に整理して編集されたものとなっています。


南斉書(なんせいしょ)

二十四史

『南斉書』は、中国南朝の斉に関する歴史書で、著者は南朝梁の蕭子顕です。もともとは『斉書』と呼ばれていましたが、李百薬の『北斉書』との区別のため、宋の時代に名称が変わりました。この書は二十四史の一つとして位置づけられています。

内容としては、本紀8巻、志11巻、列伝40巻から成る合計59巻で構成されています。もとは60巻であったと言われていますが、唐代に1巻が失われたとされており、現在は59巻が現存しています。記述されている期間は、高帝の建元元年(479年)から和帝の中興2年(520年)までの南朝斉の歴史を中心に、北朝についても「魏虜伝」において触れられています。

蕭子顕自身が南朝斉の高帝の孫という関係から、その内容は非常に詳細に記されています。しかし、その公正性には議論があり、一部の歴史学者からは公正さを期待するのは難しいとの評価も出されています。特に、蕭子顕が自らの父、豫章王蕭嶷を特別に列伝に編纂して賞賛している点が指摘されており、この行為は歴史家としての態度に疑問があるとの批判も存在します。『南史』の編纂後、『南斉書』があまり読まれなくなったとも言われています。


南楚新聞(なんそしんぶん)

『南楚新聞』は、中国の唐時代に地方での出来事を随筆体で記述した読み物です。そして、「新聞」という言葉は、この『南楚新聞』で最初に使用されました。


二刻拍案驚奇(にこくはくあんきょうき)

《二刻拍案驚奇》は、中国の明代末期(17世紀前半)に出版された口語体の短編小説集の一部です。これは、馮夢竜編の《喩世明言》(原題は《古今小説》)、《警世通言》、《醒世恒言》の〈三言〉と、凌濛初編の《初刻拍案驚奇》、《二刻拍案驚奇》の〈二拍〉の総称として言及されています。これらの小説集は各40巻で、合計200巻から成り立っています。


日本外史(にほんがいし)

『日本外史』は、江戸時代後期に頼山陽が著した歴史書で、全22巻12冊から成り立っています。源平両氏から徳川氏までの武家13氏の盛衰興亡の歴史を、漢文で綴っており、漢の司馬遷の『史記』の体裁を採用しています。特に、天皇から征夷大将軍に任命された家(源、新田、足利、徳川)の歴史を正記とし、その他の氏族を前記、後記として記述しています。

頼山陽はこの作品を作成するにあたり、200部余りの参考文献を元に、20年以上の歳月を費やしました。完成したのは文政10年(1827年)で、元老中首座の松平定信に献上されたものです。

この書は、読者を引きつける力強く美しい文章と、著者の大義名分論が示された内容により、多くの人々に影響を与えました。特に、歴史考証は正確でない部分もあるものの、独特の史観と表現力で、幕末の尊王攘夷運動などにも大きな影響を与えました。


日本書紀(にほんしょき)

巻第十の写本(田中本)奈良国立博物館蔵 国宝 平安時代・9世紀 現存最古写本 画像は現存第1紙(応神天皇紀)

『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本最古の正史とされる歴史書です。全30巻からなり、天地開闢から持統天皇の時代までを漢文・編年体で記述しています。系図1巻が付属していたと伝えられますが、現存していません。

この書は、舎人親王や太安麻侶(おおのやすまろ)らが編纂し、養老4年(720年)に完成したと言われます。古代日本の歴史に関する中核となる史料として、また東アジア史の視点からも高い価値を持つ史書です。神代を扱う初めの2巻を除けば、主に日本の歴代天皇の事績が中心となっています。ただし、例外的に神功皇后や壬申の乱に関する記述も特筆されています。

漢文での記述が中心ですが、万葉仮名を用いた和歌128首が含まれているほか、特定の語意について訓注が施されている箇所もあります。また、この書には和習(倭習)と称される、日本語的特徴や日本語話者の発想に基づく表現が見受けられます。

編纂に当たっては、日本の古記録や百済の系譜に関連する記録、『漢書』『三国志』などの中国史書が参考にされました。特に、百済や朝鮮諸国との関係が詳細に記述されているのも特徴です。

『日本書紀』の研究は日本の学界で熱心に行われており、多様な面からの史料批判や研究が進められています。この史書は『古事記』とともに「記紀」と称され、古代日本の歴史や文学に関する貴重な情報源となっています。


仁王経(にんのうぎょう)

仁王経(にんのうぎょう)は、大乗仏教の経典の一つで、『仁王般若経』とも称されます。この経典には二つの異なる漢訳が存在しています。一つは鳩摩羅什(くまらじゅう)による漢訳で、正式名称は『仁王般若波羅蜜経』。もう一つは唐の不空(ふくう)による漢訳で、『仁王護国般若波羅蜜多経』と呼ばれます。これらの経典は、般若思想を強調しながらも、護国思想や鎮護国家の必要性を特に強調しています。

内容としては、釈尊と舎衛国の波斯匿王との問答形式で進行し、般若波羅蜜の受持と講説を通じて、災難を除き国家の安定をもたらすことが説かれます。この経の独特の点は、典型的な般若経典の内容とは異なる点を持っていることです。

平安初期には、真言宗と天台宗の両宗派がこの経を特に重視しました。仁王会という法会が行われ、国の安寧を祈願する際にこの経典が用いられています。特に不空訳の仁王経を基にした『仁王経曼荼羅』が醍醐寺に所蔵されています。

ちなみに、仁王経は仏教における国王のあり方に関する教えであり、天部に分類される仁王(二王:仁王尊)についての内容を述べた経典ではありません。また、サンスクリットの原典やチベット語の訳は現存しておらず、中国で作成されたものとの見解もあります。


涅槃経(ねはんぎょう)

隋代の『大般涅槃経』写本(西漢南越王博物館蔵)

『涅槃経』は、仏教経典の一つで、釈迦の入滅(大般涅槃)を叙述し、その意義を説明する経典類の総称です。略称は『涅槃経』としても知られています。

  1. 小乗の涅槃経
    • 正式な名称は『大般涅槃経』です。
    • 東晋の法顕が418年に訳したものが知られており、この経典は釈迦の入滅前後の事実記録を中心にしています。
    • インドでの成立は3世紀末と推定され、原文はパーリ語であったと考えられています。
  2. 大乗の涅槃経
    • 北本涅槃として知られる曇無讖の訳(40巻本)と、南本涅槃として知られる慧観・慧厳・謝霊運の訳(36巻本)が存在します。
    • 後者の南本は、東晋の法顕訳の『大般泥洹経』を参照し、北本を再治したものです。
    • これらの経典は、釈迦の入滅前の教説を中心に据えつつ、仏の不滅性(法身常住)や衆生に内在する成仏の可能性(悉有仏性)を強調しています。

また、涅槃経を主とする宗派である涅槃宗が中国で興ったことが知られていますが、日本への直接的な伝来は確認されていません。

概要として、涅槃経は仏教の教えの中で非常に重要な位置を占める経典の一つであり、釈迦の最後の日々とその教え、そしてそれに伴う思想的な深化を知る上で不可欠な文献となっています。



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