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四字熟語の出典・典拠一覧(解説付き)

四字熟語の典拠・出典一覧

「や行」四字熟語の典拠・出典

「や」四字熟語の典拠・出典
安井息軒
「ゆ」四字熟語の典拠・出典
遺教経 維摩経 酉陽雑俎
瑜伽師地論 庾信
「よ」四字熟語の典拠・出典
楊果 揚子法言 揚雄
吉田松陰

安井息軒(やすいそっけん)

『讀書餘適・睡餘漫稿』より

安井息軒(やすい そっけん、1799年2月5日 – 1876年9月23日)は、江戸後期から明治時代にかけての儒学者。名は衡、字は仲平。日向国飫肥藩出身で、安井滄洲の次男として宮崎県清武郷に生まれました。

幼少時に天然痘に罹患し、片目が失明する重傷を負いましたが、学問に情熱を持ち続け、大坂や江戸での学びを経て名を馳せることとなります。特に江戸では昌平黌に入学し、松崎慊堂から古注学を学びました。その後、飫肥藩に呼び戻され侍読として仕え、藩校での教育や藩政改革に携わりましたが、藩内の保守派との対立が生じました。

後に江戸に移住し、私塾「三計塾」を開設。ここで「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。」という言葉を遺します。ペリーの来航を受けて、海防策を提言する「海防私議」を執筆し、これが水戸斉昭の注目を浴びることとなります。

明治維新を迎える中、身分を飫肥藩に戻し、東京での教育活動を続けましたが、視力や四肢の不自由さが進行。それでも筆を持ち続け、著作を残しました。77歳で東京で逝去。現在、墓所は東京都史跡に指定されており、1915年には従四位が追贈されました。

安井息軒は、その学問の業績により江戸期儒学の集大成者とも評され、近代漢学の礎を築きました。彼の門下からは、谷干城や陸奥宗光など多数の著名な人物が輩出されました。


遺教経(ゆいきょうぎょう)

遺教経(ゆいきょうぎょう)は大乗仏教の経典で、1巻からなる。鳩摩羅什(くまらじゅう)による訳と伝えられており、この経典はサンスクリット原典やチベット語訳が現存しないため、漢訳のみが今日に伝わっています。

内容としては、釈尊が入滅(涅槃に入ること)を迎える直前に、弟子たちへ最後の教えとして、戒法を守り、五欲を慎み、定を修して悟りの智慧を得ることを説いたものです。中国や日本で広く普及しており、特に禅宗では仏祖三経の一つとして大変重視されています。


維摩経(ゆいまきょう)

敦煌莫高窟第17窟でポール・ペリオによって発見された『維摩経』断簡。裏面は『吐蕃賛普伝記(中国語版、英語版)』。

維摩経(ゆいまきょうまたはゆいまぎょう)は、大乗仏教経典の一つで、サンスクリットでの原名はVimalakīrti-nirdeśa Sūtraです。サンスクリット原典は残っていないものの、チベット語訳と漢訳の3種が知られており、特に鳩摩羅什訳が広く用いられています。

この経典は、在家の居士であるヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)が主人公として登場します。彼は病床にあり、釈迦の指示で多くの弟子や菩薩が見舞いに行くことになるのですが、彼らはかつて維摩に論破された経験から、維摩との対話を避けていました。最終的に文殊菩薩が見舞いに行き、維摩との対話の中で究極の境地を示す沈黙を迎えます。

経典の中では、般若経の「空」の思想を受け継ぎながら、実践の中での実践的な指導が強調されます。特に、「空」の哲学的な考察よりも日常の中の実践としての「空」が語られています。

維摩経は、初期の大乗仏典として、戯曲的な構成で古い仏教の教えを批判し、大乗仏教の「空思想」を強く前面に出しています。特に般若経との比較で、呪術的な要素が少なく、経典を読誦することの功徳よりも、日常生活の中での実践を重視する姿勢が際立っています。

日本においても、維摩経は仏教が伝来した当初から非常に人気があり、聖徳太子による注釈『維摩経義疏』をはじめ、多くの注釈書が著されています。特に禅宗では、この経の教えが非常に重んじられています。


酉陽雑俎(ゆうようざっそ)

『酉陽雑俎』(ゆうようざっそ)は、中国の晩唐代に段成式によって著された随筆集であり、全20巻と続集10巻から成り立っています。成立は860年頃とされ、具体的な年は未詳です。書名の「酉陽」は湖南省沅陵県の小酉山を指し、そこには1000巻の書物を隠した伝説があるとされます。

内容としては、神仙や仏菩薩から怪奇な事件、風俗、動植物、医学、宗教、人事など幅広いテーマが取り上げられています。著者の段成式は、温庭筠との交流があり、また宮中の秘書省校書郎としての経験や、自身の豊富な蔵書に基づく幅広い知識を活かしてこの作品を纏め上げました。特に、唐代の社会、文学、歴史を研究する上で非常に貴重な資料として評価されています。しかし、中には非現実的な記事や小説的な要素も含まれており、それが読者の興味を引く一因ともなっています。

海外に関する伝聞も多く記されており、ソマリアのベルベラ地方を指すとされる記述や、シンデレラに似た伝説なども紹介されています。この随筆集は魯迅の愛読書としても知られ、南方熊楠はプリニウスの『博物誌』と並べて称賛しています。一部の伝世テキストには明代の遺文も含まれていると言われています。


瑜伽師地論(ゆがしじろん)

『瑜伽師地論』(ゆがしじろん)は、大乗仏教唯識派(瑜伽行派)の重要な文献で、瑜伽行の観法について詳細に説いています。サンスクリット名はヨーガーチャーラ・ブーミで、その意味は「ヨーガ行者の階梯についての論」です。全100巻からなり、唐の玄奘によって漢訳されました。漢訳の系統では弥勒菩薩が説いたとされる一方、チベット伝では無著の著作とされています。無著は世親の兄として知られ、弥勒菩薩の説を聞いてこの著作をしたとも言われています。

内容としては、瑜伽行者が認識する対象(境)、修行、果報を明確にし、阿頼耶識説、三性三無性説、唯識説などのさまざまな問題が詳細に論じられています。この文献は3~4世紀頃のインドの部派仏教や大乗仏教思想の研究において重要な資料となっており、仏教研究のための宝庫とも言える内容を持っています。


庾信(ゆしん)

庾信(ゆしん、513年 – 581年)は、中国南北朝時代の著名な文学者で、字は子山。河南省の南陽郡新野県出身。父の庾肩吾は南朝梁の簡文帝蕭綱の文学サロンに所属する文人であり、庾信も若いころから簡文帝に仕え、その詩風は徐陵とともに「徐庾体」と称され、高く評価された。彼らの作品は当時非常に流行した。

彼の生涯は波乱に満ちていた。15歳で梁の昭明太子蕭統に仕え、その後も様々な役職に就いたが、侯景の乱が起こると、その環境は一変した。この乱の最中に庾信は3人の子供を失う悲劇に見舞われた。さらに乱が平定された後、庾信は西魏の都、長安に派遣されるも、この時期に梁は事実上滅亡。彼は西魏、そして後に北周に仕えることとなった。

北朝では、庾信の文才は高く評価され、王褒と共に重用された。しかし、友人である趙王宇文招や滕王宇文逌が誅殺されるなど、北周の政治の変動の中で彼自身も不遇の時を過ごした。最終的に隋が成立した翌年、581年に庾信は長安で亡くなった。享年69。

彼の詩は、亡国の悲しみや望郷の思いが強く反映されており、「哀江南の賦」や「擬詠懐」27首などが代表作として知られる。彼の作品やその生涯は、南朝文学の終焉を示すとともに、次代の唐詩への道を開いているとされる。彼の文集には『庾子山集』16巻があり、その華麗な美文は今も評価されている。


楊果(ようか)

楊果は楊貴妃の別名で、中国の歴史上、絶世の美女として知られています。彼女は「中国四大美人」と称される四人の女性の一人で、その美しさは特に語り継がれています。


揚子法言(ようしほうげん)

揚子法言(ようしほうげん)は、前漢時代に揚雄によって著された中国の思想書です。全13巻からなり、具体的な成立年代は不明です。内容は「論語」を模倣し、問答形式で儒教の思想を説明しています。特に、孟子の性善説と荀子の性悪説の中間をとる形で、その調和を探求しています。


揚雄(ようゆう)

揚雄

揚雄(ようゆう、前53年 – 後18年)は、中国前漢時代の文人・学者で、成都(四川省)出身です。字(あざな)は子雲と言い、また「楊雄」とも表記されます。

彼は幼少期から学問を深く愛し、多くの書物を読破しました。人との論争は得意ではなく、むしろ独自の思考に耽ることを好みました。財産や名声に対して興味は持たず、素朴な生活を送っていました。若い頃、蜀の地で司馬相如の影響を受けて辞賦の制作に熱中し、また、屈原の『離騒』に感銘を受けて『反離騒』を作成しました。

30歳を過ぎて初めて都へ上り、その文学の才能が認められ、待詔となりました。同時期に王莽や劉歆といった著名な人々と交流を深めました。特に、班氏一門との交流は彼の道家思想への理解を一層深めるきっかけとなりました。

揚雄は賦の制作において名声を得ましたが、最終的には学問研究への道を選びました。主な著作としては、『太玄経』や『法言』、『方言』があり、今日までその影響は色濃く残っています。特に『太玄経』は『易経』を模倣したもの、『法言』は『論語』を模したものであり、これらの作品を通して彼の深い思索や学識が垣間見えます。


吉田松陰(よしだしょういん)

吉田松陰像(山口県文書館蔵)

吉田松陰(1830年 – 1859年)は、幕末の長州藩の武士、思想家、教育者であり、明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。本名は矩方、幼名には大次郎、寅次郎、寅之助などがあり、号には二十一回猛士というものも存在する。彼の生家は長州藩の無給通、23石取の家で、杉百合之助の次男として生まれる。吉田家には養子として迎えられ、この家は山鹿流兵学師範の家でもあった。

少年時代には藩校明倫館で山鹿流兵学を講義し、早くからその才能を藩主に認められた。20代前半には、藩府の許可を得て九州や江戸で学び、様々な知識や情報を得た。特に、佐久間象山からの学びは深いものがあった。

25歳のときには、アメリカ軍艦に乗り込み海外渡航を試みたものの失敗。その後、江戸伝馬町の獄舎に投獄され、長州藩に送還されて野山獄に収監された。藩からの出牢後、近隣の子弟を集めて教育を始める。これが後の「松下村塾」となり、明治維新を支える多くの志士を育成した。

松陰の思想は、海外の情報をもとに幕府を改革する「規諫の策」と、幕府を打倒する「草莽崛起」という2つの大きな方向性を持っていた。彼の教育の特徴は、「至誠留魂」の精神に基づいており、真心をもって事にあたれば、志を継ぐ者が現れるという信念に基づいていた。この教育からは、高杉晋作や伊藤博文など、後の明治維新を牽引する人物が多数輩出された。残念ながら、松陰は30歳の若さで、安政の大獄に関与したことで、江戸伝馬町の獄で処刑されることとなった。彼の遺した思想や業績は、後の日本の歴史に大きな影響を与えている。


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北澤篤史サイト運営者
1984年、大阪府生まれ。 著書 『マンガでわかる 漢字熟語の使い分け図鑑』(講談社、2024) ことわざ学会所属。ことわざ研究発表『WEB上でのことわざ探求:人々が何を知りたいのか』(ことわざ学会フォーラム、2023)

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