当サイトで取り扱っている四字熟語の典拠・出典一覧を、五十音順に掲載しました。
典拠とは、ある事柄の根拠となり、信頼性を保証するもの。これは、文献や史実などから得られる確かな情報源、すなわち出典を指すと同時に、伝統的な故事や事実、通称「典故」や「故実」をも指します。
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【索引】四字熟語の典拠・出典
あ行 | か行 | さ行 |
た行 | な行 | は行 |
ま行 | や行 | ら行 |
わ行 |
「あ行」四字熟語の典拠・出典
「あ」四字熟語の典拠・出典 | ||
青山佩弦斎 | 阿闍世王受決経 | 吾妻鏡 |
阿弥陀経 | 晏子春秋 | 安然 |
「い」四字熟語の典拠・出典 | ||
韋昭 | ||
「う」四字熟語の典拠・出典 | ||
優婆塞戒経 | 雲仙雑記 | |
「え」四字熟語の典拠・出典 | ||
易経 | 易林 | 越絶書 |
淮南子 | 塩鉄論 | 袁枚 |
「お」四字熟語の典拠・出典 | ||
王維 | 王羲之 | 王倹 |
汪遵 | 王昌齢 | 王勃 |
欧陽脩 | 王陽明 |
青山佩弦斎(あおやまはいげんさい)
青山佩弦斎は、江戸時代後期に活動した歴史学者で、同時に水戸藩の士でもあり、また弓術の達人でもありました。
彼は歴史書『大日本史』の編修を指導する彰考館の総裁代理として、また水戸藩の教育機関、弘道館の教授として働いていました。
しかし、徳川斉昭に関連する一件で一時的に役職を解かれたこともありました。
それでも、彼は最後には『大日本史』の重要な部分、本紀と列伝の出版に全力を尽くし、その結果、日本の歴史編纂の最高責任者、すなわち国史編修頭取に昇進しました。
- 「青山佩弦斎」が出典の四字熟語一覧
阿闍世王受決経(あじゃせおうじゅけつきょう)
阿闍世王は、釈尊(ブッダ)が生きていた時期からその死後までの間にインドの大きな国家であるマガダ国の王でした。
彼の本当の名前はサンスクリット語で「アジャータシャトル」で、これは「敵が生まれない(つまり無敵)」という意味を持ちます。
しかし、中国や日本では、「生まれる前からの敵」という解釈がより一般的です。
吾妻鏡(あずまかがみ)
『吾妻鏡』、別名『東鑑』は、日本の鎌倉時代に書かれた歴史書です。
この書物は、鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝から第6代将軍、宗尊親王までの6人の将軍についての記録を扱っています。
記録された期間は、1180年から1266年までとなっています。
この本は、鎌倉時代の終わり頃、おそらく1300年頃にまとめられたとされています。そして、そのまとめた人々は、当時の鎌倉幕府の中心的存在だったと考えられています。
全体としては52巻から成り立っていると一般に言われていますが、45巻目が欠けています。
『吾妻鏡』の記述は、当時の権力者、北条得宗家の視点から書かれているため、その偏りを理解して読むことが大切です。
また、この書物は当時存在していた記録や伝承に基づいて編纂されています。
それらの点を考慮すると、『吾妻鏡』は鎌倉時代研究の重要な基本資料となります。そして、この書物は、日本の武家政権の最初の記録とも評されています。
阿弥陀経(あみだきょう)
出典:wiki(『梵漢両字阿弥陀経』。写真は安永2年(1773年)の刊本。)
『阿弥陀経』は大乗仏教の聖書の一部です。
この経のオリジナルのタイトルは『スカーヴァティー・ヴィユーハ』で、「極楽の美麗さ」や「幸福な場所の美しい景色」といった意味を持ちます。
この名前はサンスクリット語で、『無量寿経』という別の経典と混同しないように、『小スカーヴァティー・ヴィユーハ』とも呼ばれます。
『阿弥陀経』は通常『小経』と呼ばれ、これは『無量寿経』が『大経』と呼ばれるのと対比しています。
また、『阿弥陀経』は特別な形式の経で、釈迦が弟子からの質問に答えるのではなく、釈迦自身が教えを説く形を取っています。
そのため、浄土真宗では、「無問自説経」(ウダーナ、優陀那経)というカテゴリーに分類されます。
晏子春秋(あんししゅんじゅう)
『晏子春秋』は、中国の春秋時代の斉という国で、霊公、荘公、景公の3代の君主に仕え、宰相(首相に相当)となった晏嬰についての言行を記録した書物です。
この書物が最初に言及されたのは、紀元前2世紀後半の著名な歴史家、司馬遷の著作『史記』の一部で、特に「管晏列伝」(第62巻)が代表的です。
これまでに得られた情報から、『晏子春秋』は多くの古代中国の古典と同じように、似たような話が古代から一般に広まっていたと考えられています。
前漢時代の劉向は、紀元前1世紀末に、『晏子春秋』に含まれる30巻分の話を集めて整理し、それを8巻に再編集したとされています。
1972年には、中国山東省の臨沂近郊で漢王朝の墓が発掘され、そこから大量の竹簡(竹に書かれた文章)が見つかりました。
これらは「銀雀山漢簡」として知られています。その竹簡の中から『晏子春秋』に含まれる18の話が見つかり、これにより『晏子春秋』が早くから存在していたことが確認されました。
銀雀山漢簡の発見により、『晏子春秋』が成書された時期は、戦国時代(紀元前475年-紀元前221年)と見られています。
安然(あんねん)
安然は、平安時代前期に活動した天台宗の僧侶で、五大院阿闍梨、阿覚大師、福集金剛、真如金剛などの称号を持っていました。
彼は近江国出身で、天台宗の開祖最澄と同族だと言われています。
彼の学びの旅は、初めて慈覚大師円仁の弟子となり、その後円仁が亡くなった後に遍昭から教えを受けました。
彼は顕密二教(つまり顕教と密教)だけでなく、戒律の学問(戒学)やサンスクリット語の学問(悉曇学)も研究しました。
877年には中国への渡航を計画しましたが、これは果たされませんでした。
その後、880年に「悉曇蔵」を著し、884年には阿闍梨と元慶寺の座主に任命されました。
彼の晩年は、比叡山に設立した五大院で、天台宗学と密教学の研究に専念して過ごしました。
安然は『大日経』を中心に密教を重視することで、天台宗における密教、すなわち「台密」を大成させました。
地方に伝わる伝承によると、山形県米沢市にある塩野毘沙門堂の本尊を開眼(神聖化)した後、南陽市時沢で亡くなったとされています。
そのため、南陽市には安然が最後に修行を行ったとされる「安然入定窟」が伝えられています。
韋昭(いしょう)
韋昭は、中国三国時代の呉の政治家であり、儒学者、歴史家でもありました。彼の字(つまり、別名)は弘嗣で、揚州呉郡雲陽県の出身でした。
彼の子供には韋隆がいます。
三国時代の歴史を記録した書物『三国志』の呉志の部分では、彼の名前が韋曜と記されています。
この点について、後の時代の学者たちは異なる解釈を提唱しています。
一方、裴松之は注釈の中で、彼の名前が晋の司馬昭と同じであるため、それを避ける意図(避諱)があったと解釈します。
清の銭大昕は、『三国志』には「昭」の名を持つ人物が多数見えることから、また「薛綜伝」の中には、韋曜と連名で周昭という人物が記されている箇所があることから、彼は元々「韋曜」という名も持っていたのだろうと推測します。
優婆塞戒経(うばそくかいきょう)
『優婆塞戒経』は、曇無讖によって翻訳された仏教の説法書で、『優婆塞戒本』や『善生経』とも称されます。
この経典の内容は、在家である「善生長者」という名の優婆塞(仏教徒)に向け、日常生活の中で守るべき菩薩戒を教示したものです。
この経典の存在は、奈良時代後期に遡ることができます。
具体的には、称徳天皇が768年(神護景雲2年)の6月2日に、亡き父、聖武天皇のために奉納した一切経の一部として書かれました。
現在、この貴重な文化遺産は正倉院聖語蔵に所蔵されています。また、1992年に開催された正倉院展で一般に公開されました。
雲仙雑記(うんせんざっき)
「雲仙雑記」は、藍鼎元によって著された文学作品です。
彼の独特な視点と語り口で展開される世界は、読者にとって新鮮な感動と深い洞察を提供します。
この作品は藍鼎元の豊かな想像力と深遠な思索を余すことなく表現しており、一読すればその独特な文体と主題の深さに魅了されることでしょう。
易経(えききょう)
出典:wiki
『易経』は、古代中国の重要な文献であり、その著者は一般的に伏羲とされています。
この書は卜辞(亀の甲羅や牛、鹿の肩甲骨に見る亀裂から予言する占い)と筮(植物の茎の数を用いた占い)という商朝時代から受け継がれた占術を基にしています。
現代では、『易経』は哲学書と占術のテキストとして双方の面を持つと認識されています。
その哲学的側面としての中心的な思想は、陰陽という二つの元素が対立し統合することで、自然界の変化の法則を説明することです。
また、『易経』は荀子の学派によって儒教の経典として取り込まれ、儒教の一部となりました。
玄学の視点からは、『老子道徳経』『荘子』と共に「三玄(の書)」として認識されています。
さらに、中国では『黄帝内經』『山海經』と並べて、「上古三大奇書」とも称されます。
『易経』は古代の知識を伝えるだけでなく、現代でも生きた哲学と占術のテキストとして広く読まれ、研究されています。
易林(えきりん)
「易林」は前漢の宣帝の時代に孟喜という易学者が「周易」に暦を組み合わせたもので、この易学の形式は、孟喜の弟子焦延壽によって発展させられました。
焦延壽は「周易」の六十四卦を累乗発展させ、「四千九十六卦」を作り上げました。
一卦ごとに四言絶句の詩を合わせて、それは約七万四千字にもなる大作で、これが「焦氏易林」であると言われています。
その後、「易林」は焦延壽の弟子、京房に受け継がれ、「京房易」と呼ばれ、今日では「断易(だんえき)」または「五行易」として知られています。
この暦に易林を配置する方法は「卦気値日法」または「焦氏値日法」と呼ばれています。
この学問は、六十四本卦と四千九十六支卦を一年十二ヶ月・二十四節中気・七十二候・三百六十六日に当てはめ、春夏秋冬の四季の「卦気」を推察します。
「易林活断」は、この卦気と「林詩」を併せて活断(現実的な判断)し、実生活に役立てる方法を示しています。
越絶書(えつぜつしょ)
「越絶書」は後漢初期に書かれた春秋戦国時代の呉と越に関する詳細な記録を収めた書物です。
現行本は15巻から成り立っています。
この時代は中国の歴史において大きな変動と発展が起こった時期で、その様々な歴史的出来事や人物、文化的変革が詳細に記録されています。
同じく呉と越を取り扱った後漢の書物として「呉越春秋」も存在します。
内容は多くが重なるものの、成書年代は「越絶書」の方が早く、「呉越春秋」の記事には「越絶書」を基にした箇所が多く存在するとされています。
「越絶書」はそのため、「呉越春秋」よりも情報源としての価値が認められ、歴史家や学者たちによって広く参照されています。
「越絶書」は呉と越の地域的な文化や社会、政治についての深い理解を可能にし、また春秋戦国時代の歴史の理解を深める重要な一助となります。
淮南子(えなんじ/わいなんし)
『淮南子』は、前漢の武帝の時代に淮南王であった劉安が著述させた哲学的な書物です。
劉安は学者たちを集めてこの著作を編纂しました。
この書は日本には非常に早い時期に伝わり、漢音では「わいなんし」ですが、呉音の「えなんじ」として一般的に読まれています。『淮南鴻烈』とも称されます。
『淮南子』は10部で構成され、全21篇からなります。
『漢書』芸文志によると「内二十一篇、外三十三篇」からなると記されていますが、現代に伝わっているのは「内二十一篇」のみです。
内容は道家思想を中心に据えつつ、儒家・法家・陰陽家の思想も組み込まれており、雑家の書籍として分類されています。
また、注釈としては、後漢時代の高誘による『淮南鴻烈解』と許慎による『淮南鴻烈間詁』が存在します。
これらの注釈は『淮南子』の解釈を深めるために重要な文献となっています。
『淮南子』は、中国の古代思想の多様性を示すための重要な資料であり、中国の哲学・倫理・宇宙観の理解に役立つ一冊です。
塩鉄論(えんてつろん)
「塩鉄論」は中国の重要な経済政策に関する書籍で、前漢の桓寛によって編纂されました。
全体は10巻60篇からなり、前漢の武帝が施行した塩、酒、鉄の専売などの財政政策の存廃について、宣帝の時代に朝廷で開かれた討論会の議論をまとめています。
この書籍は、その時代の社会経済の実情を詳しく理解するための基本的な資料として位置づけられています。
それは政策立案者や学者にとって貴重な参考資料であり、当時の中国の社会、経済、政治の状況を照らし出す窓となっています。
「塩鉄論」はまた、経済政策をめぐる公私の議論や論争、様々な意見や見解の衝突を捉えており、政策の背後にある価値観や原則、思想的な枠組みを明らかにしています。
それは経済学、政治学、歴史学など、多様な学問分野において重要な分析の対象となっています。
袁枚(えんばい)
袁枚(えん ばい)は、中国清代の詩人で、食通としても著名です。
1716年に生まれ、1798年に亡くなりました。字(つつまれた名)は子才で、号(詩人などが自分の名前として用いる名)は簡斎、また随園老人とも呼ばれました。
彼は杭州府銭塘県の出身で、寧波府慈谿県を本貫とします。
彼の略歴を見ると、12歳で生員(帝国試験の初級試験に合格した者)になり、22歳で挙人(帝国試験の中級試験に合格した者)、そして24歳で進士(帝国試験の最終段階である進士試験に及第した者)になりました。
初めは翰林院(皇帝のための学者団体)で働き、その後公務につきましたが、彼の若さや妬みからか、地方の仕事しか任されませんでした。
38歳の時、袁枚は官職を辞し、その後生涯職に就くことはありませんでした。引退後は、「随園」と名付けた庭園を持つ邸宅で読書や執筆に専念し、また美食に耽溺して過ごしました。
彼の高潔で風雅な詩風が評判を呼び、多くの人々が彼に入門を望んだり、詩文の執筆を依頼したりしました。そのため、彼は常に安定した収入を得ていました。
袁枚は詩人として名高く、「性霊説」という独自の詩論を展開しました。これは詩人の性情を自由に発露することを重視すべきだという理論で、これは彼の著書『随園詩話』に詳細に論述されています。
また彼は、女性の文学を提唱し、多くの女性弟子に詩を教えました。これは男女の礼法を乱すと非難されましたが、それでも彼は『女弟子詩選』という詩集を公刊しました。
袁枚はまた、彼が追求した中華料理についてのレシピ集『随園食単』、怪異談を集めた『子不語』などの著作でも知られています。
これらの作品から、彼の多彩な興味や深い学識がうかがえます。
王維(おうい)
王維(おうい)は、中国唐朝の盛唐期に活動した詩人であり、同時に画家、書家、音楽家としても知られています。
生卒年については諸説ありますが、『新唐書』によれば701年から761年の間に活動していました。
彼は「詩仏」と称され、静謐で典雅な詩風から高く評価されました。
自然詩を大成し、同時代の自然詩人である韋応物、孟浩然、柳宗元と並び称され、特にその中でも顕著な存在とされています。また、画家としても「南画の祖」と呼ばれるなど、その影響力は多大です。
王維の人物像としては、仏教を深く信奉し、シンプルな生活を送ったと言われています。また、早くして妻を亡くした後、再婚せず、独身を貫いたとも伝えられています。
彼の作品はその高潔で清雅な性質から高く評価されていますが、その一方で朱熹などから「萎弱で、気骨が少ない」と評されるなど、意見は分かれます。
また、政治的な消極性や作品における隠遁性向が強いことに対する評価も賛否両論となっています。
王羲之(おうぎし)
出典:wiki(王羲之)
王羲之(おう ぎし)は、中国東晋時代の政治家であり、とりわけ書家として有名です。彼は「書聖」と称されるほど書道の芸術性を高めました。
その字は逸少で、右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれています。彼の出身は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族の琅邪王氏で、本貫は現在の山東省臨沂市蘭山区にあたる場所です。
王羲之の最も高名な作品は行書の「蘭亭序」ですが、彼は様々な書体を得意とし、その才能は多芸を重んじる中国の文化において大いに評価されました。
彼の書は唐の太宗や宋の太宗の強い支持を受け、日本でも奈良時代から手本とされました。
また、彼の末子である王献之も書を得意とし、二人は合わせて「二王」と称され、伝統派の基礎を形成しました。その影響力は後世の書人に絶大なものがあります。
王倹(おうけん)
王倹(おうけん)は、南朝宋から斉にかけての官僚、学者、詩人です。彼は王僧綽の子として生まれ、若い頃より学問を好む人物でした。文帝が帝位に就く事件が起きた際に父が殺され、叔父に育てられました。
彼の才能は評価され、袁粲の推薦により明帝の次女と結婚し、最高のエリートコースを歩みました。彼は書籍を整理し、重要な書籍目録を編纂するなどの業績を残しました。
また、王倹は劉昱が即位し、軍閥の蕭道成が力を付けた際に接近し、その長史となりました。蕭道成が南朝斉を建てると、王倹は尚書右僕射から左僕射に昇進しました。
しかし、蕭道成が崩御後に尚書令となったものの、実権は寒人たちが握っており、王倹自身もその事を嘆いていました。彼はまた、国子祭酒となり、自宅に学士館を設けて儒学の復興に尽力しました。
王倹は永明7年(489年)に38歳で病死し、太尉の位を追贈され、子の王騫が後を継ぎました。
汪遵(おうじゅん)
汪遵は、中国晩唐時代の詩人で、その生涯や業績について詳細な記録は少ないですが、彼の作品はその敏捷な才能と深い洞察力を示しています。
秦朝の短命で悲劇的な滅亡についての彼の七言絶句は、力強くも感傷的な詩の一篇であり、秦朝の光景を描きつつ、その消滅の悲劇を詠んでいます。
その繊細な感性と言葉の選び方は、彼がその時代の詩人としての地位を確立するのに一役買っています。
王昌齢(おうしょうれい)
出典:wiki(王昌齢)
王昌齢(おう しょうれい)は、中国唐の詩人で、「詩家の天子」とも称されました。彼は698年に京兆府に生まれ、初めて官職についた際には秘書省の校書郎でした。
しかし、彼の奔放な生活ぶりにより、江寧県丞や竜標県尉といった地方の官職に降格されました。
彼は安禄山の乱が起こると官職を辞し故郷に戻りましたが、亳州刺史の閭丘暁によって殺されました。後に閭丘暁も、唐の張鎬によって死刑にされました。
王昌齢は詩人として非常に優れており、特に七言絶句や辺塞詩に多くの名作があります。
また、閨怨詩や送別詩なども手掛け、彼の詩は「詩緒密にして思い清し」と評されています。詩集は5巻存在し、また詩論家としても活動し、複数の詩論の著作があります。
王勃(おうぼつ)
王勃(おう ぼつ)は、中国の唐代初期の詩人で、楊炯、盧照鄰、駱賓王と共に「初唐の四傑」と称されました。彼は神童として名高く、幼少時から詩作に優れた才能を示しました。
彼は朝散郎となり、後に高宗の子、沛王李賢の侍読として寵愛を受けましたが、「檄英王鶏文」を書いたことで、剣南に左遷されることとなりました。
彼が参軍であったとき、罪を犯した官奴を匿うことができず、その官奴を殺しました。その結果、彼は除名処分となりました。
その後、この事件に連座して交趾の令に左遷された父のもとを訪ねる途中、船から転落して溺死しました。
彼の詩は、南朝の遺風を残しつつも、盛唐の詩を予感させる新鮮で自由な発想が特徴的です。
彼が交趾へ向かう途中で作ったとされる「滕王閣序」は特に有名で、彼の絶唱として広く知られています。
欧陽脩(おうようしゅう)
欧陽脩(おうよう しゅう)は、中国北宋時代の著名な政治家、詩人、文学者、歴史学者で、唐宋八大家の一人です。彼は自学自習により学問を修め、詩文に秀でたとともに、政治家としても活動しました。
彼の政治生涯は波瀾万丈で、范仲淹らと改革を進めたものの、その活動が元で左遷されたこともあります。
しかし彼はその都度立ち直り、重要な職位につきました。
最終的には王安石の新法の強力な反対者となり、政界を引退しました。
彼の文学活動は多岐にわたり、散文では古文復興運動を推進し、韻文では詩と詞の両方を書いたことで知られています。
彼の詞は、その様式が詞の大衆化に大きく寄与したとされています。
歴史学者として、彼は『新五代史』や『新唐書』の編纂に関与しました。彼の研究は春秋学的色彩が強く、その時代の史学研究に大きな影響を与えました。
また金石学の発展にも寄与し、彼自身が収集した金石文を『集古録』にまとめました。
彼の作品は南宋時代の周必大によって『欧陽文忠公集』としてまとめられ、その中にはそれまで未知だった彼の書簡も含まれていました。
王陽明(おうようめい)
王陽明(1472年10月31日 – 1529年1月9日)は、中国明代の儒学者であり高級官僚でした。彼の本名は王守仁です。
彼は朱子学に対して批判的で、自身の哲学として陽明学を発展させました。
陽明学では、理解や知識を深めるために物事を窮めることは重視されず、代わりに人間が元来持っている内なる道徳心や良知を重んじました。
これは朱子学が主張する「格物致知」(物事の究明を通じて理解を深める)とは対照的です。
王陽明はまた、武将としても優れていて、その戦功は「三征」と称されました。彼は兵法を学び、軍事的な課題に取り組みました。
彼の哲学と活動は、自己修養と社会への奉仕、そして心と行動の一致を強調するという特徴を持っています。
これは個人の内なる良知に従うことを通じて、より高い道徳的理想に到達するという彼の教えの核心部分を形成しています。
彼の考え方は後の世代に大きな影響を与え、彼の思想は日本を含むアジアのさまざまな地域で広く受け入れられました。