「ら行」四字熟語の典拠・出典
「ら」四字熟語の典拠・出典 | ||
礼記 | 頼山陽 | 駱賓王 |
「り」四字熟語の典拠・出典 | ||
駱賓王 | 李賀 | 李開先 |
陸機 | 陸厥 | 六韜 |
陸游 | 李献能 | 李覯 |
李商隠 | 李紳 | 李白 |
李密 | 劉禹錫 | 柳永 |
劉希夷 | 柳毅伝 | 劉将孫 |
留青日札 | 柳宗元 | 劉長卿 |
劉廷振 | 劉伶 | 李邕 |
楞伽経 | 楞厳経 | 梁書 |
梁武帝 | 呂氏春秋 | 呂本中 |
臨済録 | 林嵩 | 林逋 |
「れ」四字熟語の典拠・出典 | ||
歴代名画記 | 冷斎夜話 | 列子 |
列女伝 | 列仙伝 | 蓮如 |
「ろ」四字熟語の典拠・出典 | ||
老子 | 琅邪代酔編 | 盧延譲 |
六祖壇経 | 論語 | 論衡 |
礼記(らいき)
『礼記』(らいき)は儒教の経書の一つで、「経書」の中でも最も基本的な文献とされる。それは、戦国時代から前漢初期にかけての礼学関連の記録を集めたもので、全49篇から成り立っています。この経典は『周礼』『儀礼』と並び、「三礼」と称される重要な経典群の一つです。
礼記という名前の意味は、礼に関する注記や注釈を指し、それに関する論議や議論の集積を示しています。その内容は多岐にわたり、政治、学術、習俗、倫理などの分野に及ぶ記録が雑然と収められています。
出典:wiki
この『礼記』は、前漢の学者・戴聖によって編纂されたものですが、彼の伯父である戴徳も『礼記』を編纂しており、それを『大戴礼記』と称します。戴聖の編纂したものを特に『小戴礼記』と呼ぶことがあります。
『礼記』は、その重要性から多くの学者によって注釈や解釈が付けられてきました。特に、後漢の鄭玄による注釈や、唐の孔穎達による『礼記正義』は非常に影響力がありました。
また、宋代には、儒学者朱熹(朱子)が『礼記』から『大学』『中庸』の2篇を取り出し、それを「四書」に加え、さらに重要な経典として位置付けました。
総じて、『礼記』は儒教思想や中国の学問・文化において中心的な役割を果たしてきた経典であり、その内容や影響は非常に大きいものとなっています。
- 「礼記」が出典の四字熟語一覧
頼山陽(らいさんよう)
頼山陽(1781年1月21日 – 1832年10月16日)は、江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。大坂生まれ、本名は襄(のぼる)、字は子成。号として山陽や三十六峯外史を用いた。
父は儒者の頼春水で、幼少期を大坂の私塾「青山社」近くで過ごし、広島藩の学問所で学んだ。若いころ尾藤二洲に学び、後に脱藩を試みるが失敗し、家での幽閉生活となった。この期間には著述活動を行い、『日本外史』の初稿を起稿した。
京都に移住後、多くの文人や墨客と交流を持ち、詩文書画の名が高まった。主要な著書に『日本外史』があり、幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えるなど、その名文と名分論的な歴史観で多くの愛読者を持った。
他の著書としては、『日本政記』、『通議』、『日本楽府』、『山陽詩鈔』、『山陽遺稿』などがある。彼は1832年に京都で亡くなり、その墓所は京都の円山公園・長楽寺にある。子孫の中には、中国文学者の頼惟勤がいる。
駱賓王(らくひんおう)
駱賓王(らくひんおう、640年頃 – 684年頃)は、中国初唐の詩人として知られ、浙江省の義烏に生まれました。王勃、楊炯、盧照鄰とともに「初唐の四傑」や「王楊盧駱」として称えられ、特に七言歌行を得意とし、代表作に『帝京篇』があります。若いころから詩の才能を示し、7歳から詩を作ることができました。
しかし、出自が低かったために政界での出世は困難で、高宗の弘道元年(683年)に長安主簿となった後、武后の怒りを買い、浙江省の臨海の丞に左遷されました。
不遇な状況に不満を抱き、684年に徐敬業が兵を起こすと、これに賛同。彼のための檄文を書き、その中で武后を批判しました。その檄文には「一抔の土未だ乾ざるに、六尺の孤、安くにか在あり」という句が含まれており、これを読んだ武后は驚きました。
後に、徐敬業の反乱は失敗し、駱賓王は行方不明となりましたが、銭塘の霊隠寺に隠れ住んでいたとの伝説も存在します。
彼の詩や文章は高く評価され、武后も彼の作品を重視。その結果、『駱丞集』という詩文集が編纂されました。この集は11の項目に分かれており、多くの作品が収録されています。
李賀(りが)
李賀(りが)は、791年(貞元7年)に生まれ、817年(元和12年)に27歳で亡くなった、中国・唐代中期の詩人である。彼の字は長吉といい、河南府福昌県昌谷(現:河南省洛陽市宜陽県三郷鎮)の出身です。彼は14歳で数々の楽府を著して名を馳せ、17歳の頃には、文壇の指導者であった韓愈にその才を認められました。
しかし、810年に進士の試験を受けようとした際、父の名「晋粛」と「進士」の「進」が同音であるため、試験を受けることが適切ではないとの理由で受験を拒否されました。これには韓愈も反論しましたが、受験は許されませんでした。李賀はその後、奉礼郎という官職に就きましたが、その職も813年に辞めました。
彼の詩は、奇異な用語と超自然的な要素を取り入れ、鬼気迫る幻想の世界を描いています。その特異な魅力から「中唐の鬼才」と称されました。しかし、その生涯は挫折と絶望に満ちており、その感情が詩にも表れています。彼の作品には『李賀歌詩篇』や『外集』などがあります。
彼の風貌について、後の詩人李商隠は、痩せた体型で、濃い眉がつながっていて、異様に長い爪を持っていたと述べています。彼の性格は人と合わない部分もあり、そのために時折、他人からの攻撃や排除を受けていました。彼の死後、遺稿は従兄弟によって便所に捨てられ、現存する作品は少ないと言われています。
李開先(りかいせん)
李開先(りかいせん)は、中国明代の詩文家および劇作家です。章丘(山東省)出身で、字は伯華、号は中麓。1529年の進士として、戸部侍郎や太常寺少卿の官職についたこともありましたが、40歳で官を辞しました。彼は家に20人から30人の俳優を置き、芝居を楽しむ生活を送っていました。
文学としては、一韻で百首の詩を作ることが可能であり、多くの文章も書きました。また、元曲を評価し、『改定元賢伝奇』を編集。『登壇記』『宝剣記』『断髪記』の3つの南曲(南方系の戯曲)も執筆しました。彼は、嘉靖から万暦の時代にかけて、演劇界の発展に先導的な役割を果たしました。
陸機(りくき)
陸機(りくき、261年 – 303年)は、中国三国時代の呉から西晋にかけての文学者・政治家・武将で、字(あざな)は士衡(しこう)。彼は呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市呉中区)の出身で、呉の丞相陸遜の孫に当たり、大司馬陸抗の四男である。彼の子は陸蔚・陸夏といいます。
陸機は非常に背が高く、声は鐘のように響き渡っていたと言われています。幼いころから優れた才能を持ち、文学において特に才能を発揮していたとされています。彼は同時代の文学者潘岳とともに「潘陸」として並び称され、また、顧栄と弟の陸雲とともに「洛陽三俊」と称されました。彼の代表的な文学理論著作に『文賦』があり、これは中国文学の理論を述べたものとして名高いです。
20歳のときに呉が滅びると、しばらく故郷に隠棲していましたが、その後は弟の陸雲とともに洛陽に移住し、晋に仕えるようになりました。その後、政治的な混乱の中で弟と共に命を失いました。
陸機の詩は華麗な言葉と修辞技巧に富み、六朝時代の詩風の先駆けとなりました。彼の著作や詩は『陸士衡集』という10巻の書籍にまとめられています。
六韜(りくとう)
『六韜』(りくとう)は、古代中国の代表的な兵法書で、武経七書の一つに数えられます。周の太公望呂尚が撰んだとされるが、現存するものは魏晋時代の偽作とされています。
「韜」は剣や弓を入れる袋を意味する言葉で、この書は「文韜」「武韜」「龍韜」「虎韜」「豹韜」「犬韜」の6巻60編から成り立っています。全編は太公望が周の文王・武王に兵学を指南する設定で構成されており、特に「虎韜」は兵法の極意として広く知られ、慣用句としても使われています。
陸游(りくゆう)
陸游(りくゆう、1125年11月13日 – 1210年1月26日)は、南宋時代の詩人であり政治家。彼の字は務観、号は放翁として知られ、通常「陸放翁」として呼ばれる。越州山陰県(現在の浙江省紹興市柯橋区)出身。彼は南宋の代表的な詩人であり、范成大、尤袤、楊万里とともに南宋四大家の一人と評され、とくに范成大とは「范陸」として並称されました。
29歳で進士の試験において第一位を獲得したものの、当時の宰相である秦檜の妨害により落第とされた経歴を持つ。秦檜の死後、官界入りを果たすものの、様々な地方官職や中央の微官を経て、しばしば批判により免職されるなど不遇の時期もあった。
陸游は強硬な対金主戦論者であり、その直接的な意見から官界では不遇であったが、その背景が彼の独特な詩風を生む原動力となった。特に、侵略者である金に対する徹底的な抗戦を主張する愛国心に満ちた詩を数多く残しており、辛棄疾とともに愛国詩人として名を馳せている。
その詩には、愛国心を強く感じさせるものから、日常の風景や生活を平静に詠んだものまで、多岐にわたる作品がある。全体としては約9200首の詩が現存し、その数は中国の大詩人の中でも最も多作であることを示している。
46歳のときに四川省への赴任時に書かれた日記『入蜀記』は、紀行文の中でも特に優れたものとして知られている。彼の主な著作には『渭南文集』50巻と『剣南詩稿』85巻があります。
李覯(りこう)
李覯(りこう、1009年 – 1059年)は、中国北宋時代の学者、文学者です。彼は建昌南城(現在の江西省)出身で、字は秦伯。最初は郷里での教育と著述活動に専念していましたが、後に范仲淹の推薦を受けて大学助教授に就任し、最終的には大学説書まで昇進しました。
王安石に影響を与えたことでも知られています。主な著作には『潜書』『礼論』『平土書』があり、詩文集として『く江(くこう)先生全集』も存在します。
李商隠(りしょういん)
李商隠(りしょういん、812年(元和7年)または813年 – 858年(大中12年))は、晩唐時代を代表する中国の詩人で、字(あざな)は義山、号は玉谿生。河南省沁陽県(現在の河南省焦作市沁陽市)の出身とされ、鄭州滎陽県(現在の河南省鄭州市滎陽市)で生まれたとされる。
若い頃、進士派の令狐楚の庇護を受け、837年には進士科に及第するも、同年に令狐楚が亡くなり、その後は令狐楚の政敵である王茂元の娘を娶ることとなりました。これにより、令狐楚の子である令狐綯から裏切り者と見なされ、政治的な舞台では不遇な時期を送りました。官職としては、多くの地方官職を歴任したものの、中央の実職には恵まれませんでした。
詩のスタイルとしては、精巧な形式美を持つ律詩を得意とし、多彩な典故を駆使して独特の世界を築き上げました。その詩風は、唐文化の晩期の繊細かつ唯美的な傾向を代表するもので、特に女性への追憶や過去と現在の交錯する意識を華麗で晦渋な表現で歌っています。また、彼の文学作品は後の時代にも影響を与え、北宋初期には「西崑体」という流派を生むほどに愛されました。
加えて、李商隠は四六駢儷文(駢文)の名手としても知られています。彼の生涯は、多くの詩作と政界での困難な状況の中で過ごされましたが、その詩は後の世代に高く評価され続けています。
李紳(りしん)
李紳(りしん)は、中国の中唐から晩唐期の政治家・詩人として知られています。彼は無錫(江蘇省)出身で、字は公垂。李徳裕との関わりが深く、その経歴は波乱に富んでいます。会昌2年 (842) には宰相に昇進し、後に淮南節度使として活動した後、その地で亡くなりました。
詩の分野では、元稹らと同じく評価されています。彼の著した『新題楽府 (がふ) 』の20首の詩は、現在は残っていませんが、その作品は親交のあった詩人、白居易の『新楽府』を生み出すきっかけとなりました。
李白(りはく)
李白(りはく、701年 – 762年10月22日)は、中国盛唐時代の詩人であり、中国詩歌史上において最高の存在とされる。字(あざな)は太白、号は青蓮居士と言い、その放浪の生涯や奔放で変幻自在な詩風から「詩仙」と称される。同時代の杜甫と並び称され、二人は「李杜」と呼ばれることもある。
李白の出自や出身地は諸説が存在しており、確定的なことは言えないが、通説としては、隴西郡成紀県(現在の甘粛省天水市秦安県)の出身とされる。また、彼の家系は、隋末の混乱期に何らかの事情で西域に追放されたが、後に四川省に移住したという。その後、20世紀には李白が西域の胡人、つまり非漢人の出自であるとの新説も登場している。
彼の生涯は、放浪を中心としており、玄宗朝に仕えたこともあったが、基本的には自由奔放に生きた。酒や月、山などを詠む詩が特徴で、道教的な幻想に溢れた作品を多数残している。彼の詩には「両人対酌して山花開く、一杯一杯又一杯」「白髪三千丈、愁いに縁よりて個かくの似ごとく長し」といった、人々に親しまれる句が多い。
総じて、李白はその生涯と詩で多くの人々に影響を与え、中国詩の歴史において不朽の名を持つ詩人として知られている。
李密(りみつ)
李密(りみつ)は、582年に生まれ、618年に亡くなった隋末の群雄の一人です。彼は遼東襄平(現在の遼寧省朝陽県)出身で、西魏の柱国李弼(りひつ)を曾祖父に持つ関隴(かんろう)貴族の出身でした。字は玄邃(すい)。
李密は文武に秀で、大いなる夢と鋭い眼光を持ち、天下の救済を志していました。初めは煬帝の左親侍(宿衛官)として仕えていましたが、その後、読書にのめり込み、特に兵書を愛読していました。彼は黄牛に乗りながら『漢書』の項羽伝を読みふける姿で知られています。
彼は楊玄感と深い交友があり、613年に楊玄感が反乱を起こすと、彼は迅速にこれに参加しました。しかし、玄感の反乱は失敗し、李密は一時捕らえられましたが、後に脱走。その後、翟譲(てきじょう)の軍に参加し、翟譲を排除してその軍勢を一手に掌握しました。彼は洛陽の王世充を攻撃しようとしましたが、失敗。最終的には唐の李淵に降伏しましたが、不満から再び自立を試み、その結果として殺されました。
劉禹錫(りゅううしゃく)
劉禹錫(りゅう うしゃく、772年 – 842年)は、中国唐代中期の詩人・政治家。字は夢得(ぼうとく)。彼は中山靖王劉勝の子孫を自称していましたが、実際には匈奴屠各種の末裔とされています。彼の生誕地は河北省の中山、もしくは江蘇省の彭城と言われています。
劉禹錫は793年に進士として合格し、後に王叔文や柳宗元らとともに政治改革を進めようとしました。しかし、805年に王叔文が失脚すると、劉禹錫も連座し、連州刺史に左遷されました。後に都へ召還されましたが、彼の詩が政府の主流派を揶揄する内容であったため、再び左遷されました。
地方に異動されていた期間中、劉禹錫は民間歌謡に接触し、農民の生活や感情を描いた詩を多く残しました。その中で「竹枝詞」や「柳枝詞」という詩は特に有名で、これらは地方で広く歌われました。また、彼は当時の因果応報や天人感応説を批判し、唯物論的な議論を展開していました。
晩年には詩人の白居易との親交が深まり、多くの詩を唱和しました。彼の詩文集としては『劉夢得文集』や『外集』が知られています。
柳永(りゅうえい)
柳永(りゅうえい)は、中国北宋時代に活躍した詞人で、福建省の崇安出身です。本名は三変で、字は初め景荘といったが、後に耆卿(きけい)に改名しました。彼の家系は、福建の建陽県崇安に代々住んでおり、父の柳宜は南唐、そして宋に仕えた高官であり、詩人としても知られました。
柳永は初め科挙の受験生として首都の汴京に赴きましたが、その生活態度や行動が話題となり、科挙の試験に多く落第しました。伝えられるところによれば、仁宗自身が彼の合格を認めなかったこともあったとされます。
しかし、1034年に進士としての資格を得ることができました。その後、彼はいくつかの地方官職に就きましたが、昇進を望むも若い頃の行いが災いし、順調な昇進は叶いませんでした。
彼の詞は、民間の流行の中で非常に人気があり、花柳の巷や朝廷の音楽所の楽工たちからも非常に評価されていました。彼は慢詞という長編の詞を数多く手掛け、口語を多用するなど、その独自の表現で宋詞の新しい時代を築きました。彼の詞は国中、さらには西夏に至るまで広く歌われ、その作品は詞集『楽章集』に収められています。
柳永は、その独特な生き様と、詞人としての高い評価で知られる存在です。彼の詞は、細やかな表現と情緒豊かな内容で、宋代を代表する文学作品として現在も読み継がれています。
劉希夷(りゅうきい)
劉希夷(りゅうきい、651年(永徽2年) – 679年(調露元年))は、中国・唐時代の詩人です。字は庭芝、または廷芝とされ、一説には名が庭芝で、字が希夷とも言われます。彼は汝州梁県の出身で、幼少時に父を亡くし、外祖父のもとで母とともに生活しました。
容姿が優れ、自由奔放な性格で素行に問題がありましたが、音楽に対する情熱は人一倍で、特に琵琶の名手として知られました。675年(上元2年)に進士となりましたが、仕官の道を選ばず、各地を遊覧しました。
彼の代表作として「代悲白頭翁」があり、この詩には“年年歳歳花相似 歳歳年年人不同”という有名な句が含まれています。この詩を聞いた彼の叔父である宋之問が非常に気に入り、詩を譲るよう頼みましたが、劉希夷はこれを断りました。その結果、怒った宋之問によって命を狙われ、下僕に殺されたという説が存在します。彼の残した詩集は4巻が確認されています。
柳毅伝(りゅうきでん)
『柳毅伝』(りゅうきでん)は、中国中唐時代の伝奇小説で、作者は李朝威です。成立は8世紀末の貞元の頃とされています。
物語の内容として、官吏登用試験に落第した柳毅は、湘江のほとりで、夫や邪険な姑に虐待されている竜王の娘、竜女に出会います。
柳毅は彼女の窮状の伝言を携えて、洞庭湖の竜宮に彼女の父、洞庭君を訪ねます。この事件に怒った洞庭君の弟、銭塘君は竜女を救い出し、柳毅と結婚させようとしますが、柳毅は固辞して竜宮を去ります。
後に、柳毅は楊州で大商人となり、金陵(現在の南京)で盧氏と再婚しますが、実は彼女は竜女の化身でした。最終的に二人は洞庭湖に行き、神仙となります。
この物語は、後世に広く読まれ、元代の戯曲『柳毅伝書』や『張生煮海』など、多くの作品の題材として取り上げられました。現在も、洞庭の君山にはこの物語に関連する柳毅井という遺跡が残っています。
柳宗元(りゅうそうげん)
柳宗元(りゅうそうげん)は、773年に生まれ、819年に亡くなった中国唐代中期の文学者・政治家であり、河東(山西省永済県)の出身から「柳河東」とも称される。彼の字(あざな)は子厚(しこう)。
彼は21歳で進士に及第し、若手官僚としてさまざまな職を歴任。王叔文をリーダーとする反宦臣派の少壮官僚として政治改革を試みましたが、その運動は失敗。その結果、柳宗元は邵州の刺史として左遷され、その後更に永州の司馬に再度左遷される。最終的には柳州の刺史となり、その地で彼は亡くなりました。
文学の分野では、彼は韓愈とともに古文運動を提唱。この運動は、長い間流行していた駢文(ぺんぶん)の形式を打破し、より自然で直接的な文章を目指すものでした。彼の文章には南方の自然の美しさを描写した「永州八記」や政治風刺の「蛇を捕うる者の説」、さらに「種樹郭橐駝伝」などがある。
詩の分野では、「南澗中に題す」「漁翁」「江雪」などの詩を残しており、彼は王維、孟浩然、韋応物とともに「王孟韋柳」と称される自然派の詩人としても知られる。
柳宗元の文学的な業績や影響は、彼の政治家としての不遇とは裏腹に、後の世代に大きな影響を与えました。特に、彼の散文や詩は、唐宋八大家の一人として後世まで読み継がれています。
劉長卿(りゅうちょうけい)
劉長卿(りゅうちょうけい、生年:709年、没年:785年)は、中国・中唐時代の詩人で、字は文房。彼の出身地については河間(河北省)の説と宣城(安徽省)の説がある。開元21年(733年)に進士となり、監察御史や転運使判官を経て、岳鄂観察使としても活動。
しかし、中傷されて左遷となり、随州(湖北省随県)刺史の職を最後にした。このため、劉随州とも呼ばれることがある。性格は剛直で、権力者との対立があったとされる。
彼の詩は穏やかな山水や田園を詠んだものが多く、激しい感情の爆発は少ないが、その緻密な表現と気品に富む詩風で知られ、特に五言律詩において「五言の長城」と称された。
彼の詩集として『劉随州詩集』10巻が知られるが、中には同一の詩句が重複して収録されるなどの混乱が見られる。
劉伶(りゅうれい)
劉伶(りゅうれい、生没年不詳、約221年? – 300年?)は、中国の三国時代の魏から晋にかけての文人で、沛国(現在の安徽省)の出身。字は伯倫。彼は老荘思想に基づく反礼教的な立場をとり、竹林の七賢の一員として知られています。
彼は身長約140cmと小柄で、その姿は手押し車に乗り、常に鍤(シャベル)を持った従者を伴い、死んだ場合にはその場所に埋めるようにと指示していたと言われています。また、彼の酒好きは有名で、常に酒を手放さず、時には素っ裸のままでいることもあったと伝えられています。その振る舞いについて問われると、彼は「天地を家、部屋をふんどしと思っている」と答え、自分の自由な生き方を他者に問うような発言をしていました。
彼の著書『酒徳頌』は、彼の酒に対する情熱や老荘的な自由を論じる内容で、礼教に縛られた当時の社会を皮肉ったものとして知られています。
李邕(りよう)
李邕(りよう、678年 – 747年)は、中国唐の著名な書家であり、本貫は趙郡柏人県です。彼は揚州江都(現在の江蘓省)出身であり、一説には広陵江夏(湖北省)の人とも言われます。字は泰和で、『文選』の注者である李善の子として生まれました。
彼は王羲之の書法を学び、豪放な性格を持つ李邕はその性格を反映して、独自の剛健で個性的な書風を築き上げました。特に碑文の作成を得意とし、生涯で800以上の碑文を手掛けたと伝えられています。
李邕の功績は盛唐の時代に特に顕著で、留台侍御史として譙王李重福の討伐に成功しました。また、玄宗の時代に北海郡太守として任命されたことから、世間に「李北海」として知られるようになりました。
しかし、その後、彼の文人としての名声や才能が李林甫によって嫉妬され、投獄された結果、非業の死を遂げました。享年70歳でした。
李邕の主な作品には『雲麾将軍李思訓碑』、『麓山寺碑』、『法華寺碑』などがあります。特に『雲麾将軍李思訓碑』は陝西省渭南市にあり、その筆勢の強さと結体の明確さが特徴です。『麓山寺碑』は湖南省長沙市に現存し、碑の篆額に「麓山寺碑」と刻まれています。
『法華寺碑』は元末に亡失しており、碑の詳細は不明ですが、その翻刻には23行、各行52字が記されています。
このような功績と才能を持つ李邕は、その名を後世に残し、多くの人々にその作品を通じて影響を与え続けています。
楞伽経(りょうがきょう)
『楞伽経』(りょうがきょう)は、大乗仏教経典の一つで、中期大乗仏教の代表的な経典です。この経典は、ランカー島(現在のスリランカ)を舞台に、釈迦が魔王ラーヴァナと対話し、彼を教化するという内容を持っています。
主要な教えとして、如来蔵思想と唯識思想が中心に据えられており、さまざまな大乗仏教の教説が統合されています。特に、自心を徹底的に観察し、無分別な状態を体験的に理解するという点が強調されており、この思想は後の禅宗にも影響を与えました。実際、禅宗の初祖である達磨大師は、この経典を重視しており、彼の後継者も『楞伽経』を参照していました。
現存する訳書としては、求那跋陀羅による『楞伽阿跋多羅宝経』、菩提流支による『入楞伽経』、実叉難陀による『大乗入楞伽経』の3つがあります。これらは、大正新脩大藏經の「経集部」に収録されています。
ネパールでは、『楞伽経』は九法宝典の一つとして特別な位置づけを受けており、アジア各地での影響の大きさが伺えます。
簡潔に言えば、『楞伽経』は大乗仏教の核心的な教えを集約した経典であり、特に禅宗の形成において重要な役割を果たしたものです。
楞厳経(りょうごんきょう)
『楞厳経』(りょうごんきょう)は、大乗仏典の一つで、正式には「大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経」と呼ばれます。この経典は10巻からなり、インドの僧・般剌蜜帝が唐の則天武后の時代(690-704)に口訳を行い、流謫中だった房融が筆録したとされています。
楞厳経は、修禅や耳根円通など、禅法の核心的な教義を詳述しています。特に、新興の禅や菩薩戒、密教の教義を仏教の権威をもって総合的に主張しています。そのため、この経典は、禅や密教の教義を総合的に理解するための重要な文献とされています。なお、「楞厳」という言葉は、堅固な三昧の意味を持ちます。
一部の学者や伝統においては、楞厳経の真正性に疑問が投げかけられ、偽経である可能性も指摘されています。しかし、その内容や影響から、楞厳経は仏教研究や実践の中で重要な位置を占めています。
梁書(りょうしょ)
『梁書』(りょうしょ)は、中国の正史の一部として知られる南朝梁の歴史を綴った書籍です。この書は、唐の姚思廉によって編纂され、629年(貞観3年)に成立しました。全56巻から成るこの書は、本紀6巻と列伝50巻で構成されています。
特徴的な点として、『梁書』は当時流行していた駢儷文(べんれいたい)を採用せず、古文で叙述されています。その結果、読みやすく、公正で整った内容となっています。また、この書は官撰の正史とは異なる趣きを持ち、『史記』のような私撰の史書としての性格も備えています。
梁の歴史だけでなく、当時の東・東南・西・中央・南アジア諸国についての記録も含まれており、特に巻五十四 列伝第四十八 諸夷では、倭国(日本)をはじめとする国々の概要が紹介されています。その中で、倭王武が大将軍に任命されたことなどの史実も記述されています。
総じて、『梁書』は南朝梁時代の研究において最も重要な資料の一つとされています。
梁武帝(りょうぶてい)
梁武帝(りょうぶてい、464〜549年)の名は蕭衍(しようえん)で、字は叔達です。南朝梁の初代皇帝として在位し、その治世は長い四八年間にわたりました。斉の和帝からの禅譲を受けて即位しました。彼の時代は南朝文化の最盛期として知られ、官制の制定や人材の登用を積極的に行ったことで、安定した治世を築きました。特に土断法を実施するなど、流民対策にも努めました。
一方、治世の後半では仏教に深く心酔し、財政を圧迫する結果となりました。その影響もあって官紀が乱れ、侯景の乱によって監禁され、そのまま亡くなりました。南朝の中で多くの残虐や無能な皇帝がいた中、梁武帝は名君としてその名を高く残しています。
呂氏春秋(りょししゅんじゅう)
『呂氏春秋』は、中国の戦国時代末期に秦の呂不韋が多くの学者を集めて共同編纂させた書物で、『呂覧』とも称されます。この書物は26巻160篇から成り立ち、構成は十二紀・八覧・六論となっています。呂氏春秋は、儒家や道家を中心に、名家、法家、墨家、農家、陰陽家などの諸学派の思想が幅広く取り入れられており、雑家の代表的な書物とされています。
内容としては、天文暦学、音楽理論、農学理論などの自然科学的な論説が多く取り上げられ、そのため自然科学史においても非常に重要な位置を占めます。さらに、有名な寓話や説話、例えば「刻舟求剣」なども収録されています。
書名『呂氏春秋』の由来は、1年の12カ月を春夏秋冬に分けた十二紀と、八覧からきています。呂不韋自身は、この書の完成後に一般に公開し、内容に対して一字でも添削ができる者には千金を与えると宣言しました。このエピソードは「一字千金」という言葉の由来としても知られています。
注釈や研究の面では、前近代の中国では後漢の高誘の注釈や清代の畢沅の校注が存在します。日本では、江戸時代や幕末にも呂氏春秋の研究や注釈が行われており、ヘルマン・ヘッセの『ガラス玉遊戯』でも引用されていることから、その影響は非常に広範囲にわたっています。
要するに、『呂氏春秋』は先秦時代の諸学派の思想を網羅的に収録した雑家の代表的書籍であり、古代中国の思想や自然科学の研究において欠かせない重要な文献であると言えます。
呂本中(りょほんちゅう)
呂本中(りょほんちゅう、1084年 – 1138年)は、北宋末から南宋初の詩人・学者で、寧州(安徽省)出身です。字は居仁、号は東莱。彼は幼少の頃から非常に賢明で、曾祖父の呂公著(宰相)の影響で、特に試験を受けることなく官職に就きました。彼は枢密編修や権尚書郎などの要職を歴任し、南宋時代には中書舎人まで昇進しましたが、中傷の末、太平観提挙に左遷されてしまいます。
詩人として、呂本中は黄庭堅の詩風を継承し、江西詩派を体系化した『江西詩社宗派図』を記述することで、江西詩派の発展に大きく貢献しました。彼自身も黄庭堅の影響を受けて、緻密で生き生きとした詩を多数残しており、『東莱詩集』や詩論の『紫微詩話』などの作品が知られています。また、彼は学者としても『哲宗実録』の編集や『春秋解』、『童蒙訓』などの著作を手掛け、その学問の幅広さと深さを示しています。
臨済録(りんざいろく)
臨済録(りんざいろく)は、中国唐代の仏書で、禅宗、特に臨済宗の開祖である臨済義玄の言行をまとめた語録です。正式な名称は『鎮州臨済慧照禅師語録』と言い、全1巻または2巻から成り立っています。この語録は、臨済の弟子である三聖慧然によって初めて編纂され、さらに円覚宗演によって増補されました。宣和2年(1120年)に印刷され、広範囲に流布し、「語録の王」とも称されています。
内容としては、北宋の馬防による序文の「序」、弟子たちとの問答集である「上堂語」、弟子への講義録の「示衆」、他の禅僧との問答集の「勘弁」、臨済の伝記である「行録」、さらに碑文2つの「塔記」から構成されています。
この語録は、臨済宗の根本聖典として位置づけられ、多くの名句や唐代の口語を含むため、文学的・歴史的にも非常に価値があります。
林逋(りんぽ)
林逋(りんぽ、967年 – 1028年)は、中国北宋時代の詩人です。字は君復、諡(おくりな)は和靖先生で、林和靖とも呼ばれることが多い。彼は杭州銭塘県(現在の浙江省杭州)の出身で、若いころに父を亡くしたため、独学をして知識を深めました。
恬淡とした性格の持ち主で、物質的な欠乏を気にすることなく生活していました。西湖の孤山に隠棲して、20年以上も市街に足を踏み入れずに過ごしました。その隠遁生活の中で、庭に梅を植え、鶴を飼って楽しんでいたと言われ、「梅が妻、鶴が子」と自ら詠んで笑っていたとの記録があります。
彼の詩には、西湖の美しい風景や、特に愛した梅を詠んだものが多いです。その中でも「疎影横斜水清浅,暗香浮動月黄昏」という句が特に有名です。詩風は平静で淡白であり、宋詩の新しい方向を示す先駆となりました。
仁宗皇帝は林逋の詩を高く評価し、彼に和靖先生の諡を贈りました。日本でも、江戸時代から彼の詩は愛好され、狩野元信や孝信などの画家たちによって彼の詩が画題として取り上げられ、広く知られるようになりました。
歴代名画記(れきだいめいがき)
『歴代名画記』(れきだいめいがき)は、中国唐代の画史、画家伝、及び画論書で、10巻から成り立っています。この著作は張彦遠によって撰ばれ、853年頃に完成したものとされています。
著書の内容として、前半の3巻は絵画の源流や効用、収蔵の歴史、六法その他を論じる叙論部分となっており、冒頭には「画の源流を叙す」という名文で知られる部分があります。この部分は画論の基調を形成しています。また、「画の興廃を叙す」に関しては、これが本来一連の文章だったとする説が有力とされています。「画の六法を論ず」の章では、謝赫から始まる気韻論の発展過程が詳述されています。
後半の4巻から10巻では、伝説の時代から唐の会昌元年(841年)までの画家370人の小伝や作品、逸話、さらには当時張彦遠が実際に目にした長安や洛陽の諸寺院の壁画などについての記述が年代順に掲載されています。
張彦遠は、描線を主体とする絵画を最も正統的なものと考え、東晋の顧愷之から盛唐の呉道子までの進展と変化に重きを置きました。その評価の根底には、謝赫によって示された六法論が存在していました。この『歴代名画記』は、絵画に関する学問や研究の際の不可欠な文献として、多くの学者や愛好者に重宝されています。
冷斎夜話(れいさいやわ)
『冷斎夜話』(れいさいやわ)は、覚範慧洪によって編纂された作品です。この書は、詩人たちの逸話と、それらの作品に対する評論を集めたものとなっています。五山文学に対する影響は非常に大きく、宋時代の版本である五山版が存在しています。
列子(れっし)
列子(れっし)は、中国戦国時代の道家の思想家で、その実名は禦寇(ぎょこう)とされます。彼は虚心説を唱え、戦国時代末期に列子を祖師とする一派が存在しましたが、その一派は後に消滅したと考えられます。彼の名前は『荘子』にも登場し、後の唐代には沖虚真人の称号が与えられました。
『列子』は、その列禦寇の著書とされる道家の文献で、多くの寓言や伝説を通して道家的思想を伝えています。特に「湯問篇」では、現代のロボットに似た存在が紹介されています。現行の『列子』は8巻8篇から成り立っており、『漢書』芸文志にも言及されています。
しかし、現存する『列子』の内容には『荘子』からの引用や仏教思想が混入しているため、魏晋代以降に成立した偽書ではないかという説が存在します。20世紀末以降は、この偽書説に対する反論も現れていますが、まだ定説とはなっていません。
列女伝(れつじょでん)
『列女伝』(れつじょでん)は、中国の前漢の劉向によって編纂された歴史書で、女性の史伝を集め、理想の女性像やその模範となる逸話を伝えるための教訓書とされています。原著は7篇構成でしたが、後に上下に分けられ、頌1巻が加えられて15巻となりました。南宋の蔡驥による再編本では、原著の7巻に頌文を追加し、『続列女伝』を合わせて8巻構成となっています。
女性像は、賢明、貞慎、節義などの類型に分かれ、それぞれに関連する賢母や烈婦の逸話が収録されています。列女伝には、前漢の劉向撰の『古列女伝』や明の解縉撰の『古今列女伝』などが著名です。
注釈として、清の王照円の『古列女伝補注』や、顧広圻の『古列女伝考証』、梁端の『列女伝校注』などが存在します。また、日本においても、明治時代に松本万年の『参訂劉向列女伝』という注釈があります。
平安時代には既に日本に伝わっており、江戸時代には朝鮮王朝の『新続列女伝』や黒沢弘忠の『本朝列女伝』、北村季吟の『仮名列女伝』などが刊行されました。
列仙伝(れつせんでん)
『列仙伝』(れっせんでん)は、中国の仙人の伝記集で、2巻からなります。この書物には伝説上の神農や黄帝の時代から、前漢の武帝~宣帝間の70人以上の仙人の伝記や逸話が収録されています。
伝えられるところによれば、前漢末の劉向が選び、編纂したとされますが、その真偽については疑問視されています。理由として、書中に後漢代に命名された地名が散見されることや、劉向の同時代人が仙人として記載されていることなどが挙げられます。
また、晋の葛洪による『神仙伝』とともに、中国古代の神仙伝説や神仙説を知るための貴重な資料として位置づけられています。ただし、魏晋時代の偽作である可能性も指摘されています。
総じて、『列仙伝』は中国の神仙伝説や信仰に関する歴史的な背景を理解する上での重要な文献と言えます。
蓮如(れんにょ)
蓮如は、室町時代から戦国時代にかけての浄土真宗の僧で、浄土真宗本願寺派(現在の本願寺派と大谷派)の第8世宗主として知られています。彼の活動は、当時衰退していた本願寺の再興と、浄土真宗の教義の普及に大きく貢献しています。
以下は、蓮如についての概要です。
- 生涯:蓮如は1415年に京都で生まれ、1499年に亡くなりました。
- 早年:彼は青蓮院で得度し、広橋兼郷の猶子となりました。その後、父・存如を補佐して門末への聖教の書写などを行いました。
- 本願寺第8世宗主:父・存如の死後、本願寺の第8世宗主としての地位を継ぎました。当時の本願寺は衰退していましたが、蓮如の下で再興の道を歩むこととなります。
- 布教活動:彼は比叡山延暦寺の衆徒の襲撃を避けるため、越前国吉崎に道場を開きました。そこで「御文」や「御文章」と呼ばれる伝道文書を書き、信者たちに教義を教えました。
- 一向一揆:蓮如の活動は多くの信者を惹きつけ、その結果、信者たちが一向一揆という形で立ち上がり、地域の支配者や他の宗教勢力との間に軋轢や紛争が生じることとなりました。
- 教義:蓮如は浄土真宗の教義をさらに明確にしました。彼の教えは、信心を持ちつつも、社会の中での行動は王法に従うことを重視するものでした。
- 遺産:蓮如は本願寺教団の再興を果たし、現代にも続く大きな宗教団体の礎を築きました。彼の活動は、日本の仏教史や社会史において、非常に重要なものとして位置づけられています。
蓮如の生涯や活動は、その時代の社会や宗教的背景と深く結びついており、日本の歴史や文化を理解する上で重要な人物といえます。
老子(ろうし)
老子(ろうし)は、中国春秋時代に活動した伝説的な哲学者で、道家の祖とされています。彼の思想は後に生まれた道教の基盤となり、老子自体は道教の多くの宗派で神格として崇拝されています。彼の著作とされる『道徳経』(または『老子』とも称される)は、道家思想の核となるもので、後の時代に大きな影響を与えました。
老子の本名は李耳で、字はたん、老たんとも呼ばれることがあります。彼は周の時代に文書係や守蔵室吏として仕えており、孔子に礼の道や隠の道を教えたという伝説が存在します。しかしながら、周の衰退を見て西方へと去ることを決意。その際、関所の守りであった尹喜に請われ、『道徳経』を著したとされています。
『史記』の記述や他の伝えられる話によれば、老子の実在や生涯には不明瞭な部分が多く、その実在そのものに疑問を持つ説や、生存時期を変える説、複数の人物の伝説が一人の老子として統合されたという説など、様々な意見や研究が存在します。
『道徳経』には道家思想の核心が記されており、「無為にして為さざるなし」という教えや謙退の精神、自然と調和する考え方などが述べられています。これらの思想は、後世の人々や他の思想家、特に荘子などに引き継がれ、中国文化の中心的な役割を果たし続けました。
以上の内容から、老子は中国哲学や文化において非常に重要な位置を占める人物であり、その教えや伝説は多くの人々に影響を与えてきました。
六祖壇経(ろくそだんきょう)
『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、中国禅宗の第六祖慧能の説法集として重要な位置を占める仏教の経典です。唐代に、韶州の韋璩の求めにより、大梵寺で行われた慧能の説法が主な内容として含まれており、その説法は弟子の法海によって記録されました。
この経典は禅宗における根本教典の一つとされており、南宗禅の立場とその特質を示す根本資料として非常に重視されています。『六祖壇経』は南宗禅の基本的な立場を明確に示し、北宗禅に対する南宗禅の特質を明確にしました。
異本が多数存在しており、敦煌出土本や恵昕編集本など、複数の系統があります。特に、敦煌出土本は時代的に古いものの、恵昕本の内容がより優れているとの意見も存在し、どちらが本来の形を示しているかについては意見が分かれています。同時代には、慧能の弟子である慧忠が「『壇経』は改変された」との主張があり、改変者として荷沢神会の名が挙げられることもある。
この経典は、嗣法の証として代々伝授されていましたが、9世紀以降、広く世に知られるようになりました。英語ではPhilip Yampolskyによって英訳され、多くの人々に読まれています。
論語(ろんご)
出典:wiki(論語 衛霊公)
『論語』は中国の古典で、儒教の教祖である孔子とその弟子たちの言葉や行動を記録したものです。孔子の死後、弟子たちが彼の言葉を記録し、整理したとされています。
出典:wiki(孔子)
『論語』は、儒教の経典(教えの基本となる書物)の一つで、その内容は儒教の基本的な思想を示しています。具体的には、道徳や倫理について、社会的な秩序や人間関係について、教育や学問の重要性についてなど、さまざまなテーマを扱っています。
その内容は簡潔で理解しやすいため、儒教の入門書として広く読まれ、中国の歴史を通じて最もよく読まれた本の一つとなっています。学者だけでなく、一般市民や農民にも広く読まれていました。
『論語』という名称は、漢代(紀元前206年 – 紀元220年)の時期に定着しました。「論」は議論や論議を、「語」は言葉を意味しており、『論語』は孔子や弟子たちの言葉を議論しながら記録したという意味が含まれています。
『論語』の具体的な成立過程は複雑で、誰がどの部分を編纂したのかについてはいくつかの説があります。しかし、現在の形の『論語』が成立したのは漢代のころであり、その後もさまざまな学者による注釈が加えられ、現在に至っています。
このように『論語』は、その内容や成立の背景を理解することで、中国の古代の思想や社会、文化を深く理解する手がかりとなる重要な書物です。
論衡(ろんこう)
『論衡』(ろんこう)は、中国後漢時代の思想家王充が著した30巻から成る思想書・評論書です。王充はこの著書を30数年の歳月をかけて執筆し、主に実証主義の立場から多岐にわたる事柄を論じました。
内容としては、仕官の遇・不遇は才能や行操と無関係であり、これを偶然と解釈する視点があります。また、人間の運命や天との関係、人間の役割などの哲学的問題も扱われています。王充は、天の意志を否定し、無意志な力「気」が全てを支配するとの立場をとりました。また、天人相関説、即ち、君主が良い政治を行わないと天が地上に災いをもたらすという考えを単なる自然現象として解釈しました。
その他にも、王充は陰陽五行思想や先哲の迷信的な考え方を徹底的に批判し、真実をそのまま記述することを重視していました。神仙不老長生説や鬼神の存在を否定し、当時の国教である儒教をも強く批判する立場をとりました。
後世において、『論衡』は、一時期評価を受けたものの、孔子や孟子に対する批判的な内容から宋代以降は評価が下がりました。しかし、近代に入ってから再びその価値が見直され、特に1970年代の中華人民共和国では、孔子批判の先駆的な思想書としての評価がされました。