「は行」四字熟語の典拠・出典
「は」四字熟語の典拠・出典 | ||
枚乗 | 佩文韻府 | 馬熙 |
白居易 | 白孔六帖 | 芭蕉翁廿五箇条 |
博物志 | 林鶴梁 | 般舟讃 |
范成大 | 范仲淹 | 般若心経 |
「ひ」四字熟語の典拠・出典 | ||
秘蔵宝鑰 | 評史 | |
「ふ」四字熟語の典拠・出典 | ||
傅咸 | 傅玄 | 物理論 |
不動智神妙録 | 文章軌範 | 文章弁体 |
文心雕龍 | 文中子 | 文徴明 |
文天祥 | ||
「へ」四字熟語の典拠・出典 | ||
平家物語 | 平妖伝 | 碧巌録 |
別所長治記 | 駢字類編 | |
「ほ」四字熟語の典拠・出典 | ||
報恩経 | 宝鑑 | 法言 |
方広大荘厳経 | 鮑照 | 法書要録 |
抱朴子 | 牟融 | 方輿勝覧 |
北史 | 墨子 | 北斉書 |
北夢瑣言 | 法華経 | 菩提心論 |
法句経 | 法華義疏 | 本事詩 |
本朝文粋 | 梵網経 |
枚乗(ばいじょう)
枚乗(ばいじょう)は、前漢の文人であり、字は叔といいました。彼は淮陰(江蘇省)出身で、初めは呉王劉ひに仕えましたが、王の叛意を諫めたにも関わらず、その助言は受け入れられませんでした。
彼はその後、梁の孝王に仕え、そのサロンで活躍しました。枚乗は賦や文章を得意としており、特に彼の作品「七発」は、後に「七」という新文体を確立するきっかけとなりました。この「七発」は、楚辞の抒情的な表現から、叙事的で華美な漢代の賦へと向かう変遷の先駆けとも言われています。
晩年には故郷の淮陰に隠棲し、後に武帝に招かれましたが、長安へ向かう途中で病死しました。彼の子、枚皋も賦の名手として知られ、武帝の下で多くの作品を残しました。枚乗の「七発」は『文選』にも収録されており、彼の文才と影響力を今に伝えています。
- 「枚乗」が出典の四字熟語一覧
佩文韻府(はいぶんいんぷ)
『佩文韻府』(はいぶんいんぷ)は、清の康煕帝の勅命によって張玉書ら76人の学者が編纂した、中国の韻による語彙集です。総数106巻で、拾遺という補遺も106巻があります。この書は1711年(康煕50年)に公刊されましたが、拾遺は康煕55年に成立しました。
内容としては、経・史・子・集の四部の古典から2~4字の熟語を広く採録しており、その語彙の末尾の字の韻に従って106韻に分類排列されています。出典も注記されており、約45万の語彙が収録されています。元々は漢詩を作成する際の参考として編集されたものであり、現在でも古典の語彙の出典や用例を検索する際の重要な参考書として利用されています。
「佩文」という名称は、康煕帝の書斎の名前である「佩文斎」にちなんでいます。
さまざまな刊本が存在し、中でも清朝内府武英殿本、海山仙館本、そして1889年の活字本が知られています。日本では、吉川弘文館から大槻如電の索引が付された版が1908年に出版されています。
白居易(はくきょい)
白居易(はくきょい)は、772年(大暦7年)から846年(会昌6年)にかけての唐代中期の詩人であり、中国の太原(山西省)出身であった。彼の字は楽天といい、楽天や白楽天としても広く知られています。この「楽天」という名前は『易』の「繋辞伝」から、天の法則を楽しむ意味を持つ。また、彼の号は香山居士や酔吟先生といったものもありました。
彼は28歳で進士となり、その後、翰林学士や左拾遺、太子賛善大夫などの要職を歴任しました。しかし、ある時罪に問われ、江州の司馬に左遷されました。その後も地方の刺史や刑部侍郎としての職を経て、会昌2年には刑部尚書として辞任しました。彼が亡くなった後、尚書右僕射の称号が贈られました。
白居易の詩は、社会の矛盾を風刺する詩や、晩年には自らの閑寂な境地を詠んだ詩など、多岐にわたります。現存する詩は三千余首にのぼり、唐代の詩人としては非常に多い。特に、玄宗と楊貴妃の愛を描いた『長恨歌』は広く知られています。彼は韓愈とともに「韓白」と称され、さらには李白、杜甫と並び「李杜韓白」としても評価されていました。
彼の作品集『白氏文集』は、日本においても平安時代以降広く読まれ、日本文学への大きな影響を与えたことで知られます。
白孔六帖(はくこうりくじょう)
『白孔六帖』は、宋代の晁仲衍が注を付けた書籍で、その後孔伝が『孔氏六帖』30巻を続編として撰しました。これらを合わせて、後の時代の人々は『白孔六帖』や『唐宋白孔六帖』と呼ぶようになりました。全体で100巻からなっています。
しかし、『資暇集』や『南部新書』の著者たちは、この書に関するある誤りを指摘しています。さらに、『容斎随筆』では、『白孔六帖』が浅薄な内容の書として批評されています。
芭蕉翁廿五箇条(ばしょうおうにじゅうごかじょう)
『芭蕉翁廿五箇条』(ばしょうおうにじゅうごかじょう)は、江戸中期に刊行された俳諧作法書で、1冊から成ります。享保11年(1726年)に発行されました。この書は芭蕉の作品とされていますが、各務支考(かがみしこう)の偽作ではないかとの見方もあります。内容としては、蕉風俳諧の付合つけあいの作法を25の項目で詳述しており、貞享式(じょうきょうしき)とも称されます。
博物志(はくぶつし)
『博物志』(はくぶつし)は、中国の西晋時代の学者張華によって著された奇聞や伝説の集積書です。本書は、神仙、特異な人々、動植物などに関する記録や民間伝説を主として収録しています。張華は博学の士として知られ、『博物志』は彼の広範な知識を活かして収集された多くの珍しい話を含んでいます。
もともとは400巻あったと伝えられるこの書は、内容に疑問を持った武帝の命令で10巻に削減されたとされています。しかし、現存する『博物志』には記載されていない文章が他の書物で引用されていること、また、内容が断片的であることから、原本は一度失われ、現在の版は後世の人々が他の文献から引用して再編集したものと考えられます。
本書には、地理的知識、各地の物産、珍しい動植物、歴史的人物の故事などが分類されて記載されており、古代神話の材料としても非常に価値があります。例として、七夕伝説の原典として『博物志』が初めて取り上げています。ただし、原文には字句の誤りや欠落が多く、その利用には注意が必要です。
林鶴梁(はやしかくりょう)
林鶴梁(はやし かくりょう、1806年9月24日 – 1878年1月16日)は、江戸後期から明治期の著名な儒学者で、江戸時代後期の代表的な儒者でありました。群馬県の上野国群馬郡萩原村(現・高崎市)出身の幕臣で、本名は長孺。通称として鐵蔵や伊太郎を持っていました。
彼は元々下役人である御箪笥同心でしたが、その文才が藤田東湖に認められ、奥火元番へと昇進しました。甲府の徽典館学頭や、遠江国中泉や出羽国柴橋の代官としての仕事を歴任し、特に安政の大地震への対応で、恵済倉という貧民救済策を実施し、地図作成などの功績で知られます。銅山開発でも実績を残し、外圧に関しては鎖港論を支持しました。
林鶴梁は、佐藤一斎、松崎慊堂、長野豊山、渡辺崋山など多くの学者に師事し、さらに徳川斉昭や真田幸貫、松平慶永といった著名な藩主との交流がありました。さらに、彼の著作『靏梁文鈔』は、夏目漱石や三田村鳶魚などの明治時代の知識人に愛読されていました。
維新後も彼は幕臣の誇りを持ち続け、東京・麻布にて門生を教育しました。彼の墓は東京都港区赤坂の澄泉寺にあります。大正4年(1915年)には、正五位が追贈されました。
般舟讃(はんじゅさん)
般舟讃(はんじゅさん)は、中国・唐時代の浄土教僧、善導による著作で、1巻から成り立っています。正式な題名は『依観経等明般舟三昧行道往生讃』です。この著作では、『観無量寿経』などを基にして、浄土を讃える文章が作成されており、般舟三昧を通じての浄土往生の方法について詳しく説明されています。
范成大(はんせいだい)
范成大(はんせいだい、1126年6月26日 – 1193年10月1日)は、中国南宋時代の政治家・詩人です。字は致能、また石湖居士と号しました。彼は蘇州呉県の出身で、紹興24年(1154年)に進士として及第しました。彼の政治キャリアは多岐にわたり、税法改革や軍政の強化など多くの業績を残しました。特に、国信使として金国に赴いた際には、金の朝廷の威嚇に屈しない強い態度で宋の威信を守りました。
また、彼は中書舎人や参知政事といった重要な役職を歴任しましたが、最終的には病気を理由に故郷に帰り、そこで亡くなりました。彼は後に崇国公に追封され、文穆と諡されました。
文学の面では、范成大は南宋四大家の一人として数えられ、清新な詩風で特に田園の風景を詠んだことで知られています。主な著作には『石湖居士詩集』『石湖詞』『呉船録』などの紀行文や詩集があります。彼は有能な人物の鑑識にも優れており、配下からは多くの有能な者が出てきました。
范仲淹(はんちゅうえん)
范仲淹(はんちゅうえん、989年10月1日 – 1052年6月19日)は、中国北宋の著名な政治家・文人です。蘇州呉県(現在の江蘇省)出身で、字(あざな)は希文、諡(おくりな)は文正公です。彼は科挙に合格して政界に入り、多くの政治家としての活動を経て、特に西夏の侵入を防ぐ役割で辺境を守った功績が認められました。その後、参知政事(副宰相)に昇進しました。
范仲淹は、政治改革のために多くの提案を行いましたが、その中でも特に「先憂後楽」の語で知られる「岳陽楼記」は彼の代表的な作品として名高いです。この文章は、政治家としての彼の心情や考えを反映したもので、当時の社会状況や彼自身の左遷という境遇に基づいて書かれました。
また、彼は宋代士風の形成者の一人としても知られ、その散文は高く評価されています。主要な著作には「范文正公詩余」や「范文正公集」があります。
総じて、范仲淹は北宋時代の政治と文化に大きな影響を与えた人物として、後世に広く評価されています。
般若心経(はんにゃしんぎょう)
般若心経は大乗仏教の経典で、原名を『プラジュニャーパーラミター・フリダヤ・スートラ』といい、日本での正式な経題名は『般若波羅蜜多心経』です。一般的には『般若心経』と略称で呼ばれ、さらに短縮して『心経』とも呼ばれます。この経典は空の理法をさとることが根本思想とされ、非常に短い内容にも関わらず大乗仏教の教理の精髄を詰め込んでいると評価されています。
般若心経は仏教経典の中で最も短い部類に入るものの一つであり、玄奘三蔵の訳では262字しかありません。しかし、その短さにもかかわらず、大乗仏教の中心的な教えである「諸法皆空」の思想をよく表現しています。この経には、「色即是空、空即是色」という有名な語句が含まれており、この部分は実体として存在しないものが形や色を持って現れることを示しています。
般若心経は、日本において古くから広く読誦され、多くの宗派で読誦経典の一つとして取り入れられています。特に「色即是空・空即是色」の名句は、日本の信者に親しまれてきました。サンスクリットの原典は日本にも伝わっており、法隆寺や長谷寺に保管されています。
短い内容でありながら、般若心経は大乗仏教の核心的な教えを簡潔に表現しており、長い歴史を通じて多くの仏教徒に読誦され、親しまれてきました。
秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)
『秘蔵宝鑰』は空海の著書で、平安前期に天長7年(830年)頃に成立しました。この書は3巻からなり、淳和天皇の勅命によって書かれました。『秘密曼陀羅十住心論』という10巻の勅書を空海自身が要約したもので、『十住心論』は広論と呼ばれ、『秘蔵宝鑰』はその略論とされています。
『秘蔵宝鑰』の中巻には『憂国公子と玄関法師の十四問答』という部分が存在し、これは『十住心論』には含まれていませんが、この問答は『秘蔵宝鑰』中巻の3分の2を占めています。この書の主要な目的は、諸思想の優劣や深浅を定め、真言宗の立場を明らかにすることです。
評史(ひょうし)
『評史』は、15〜16世紀の政治家、趙弼(ちょうひつ)が記した書物です。
傅咸(ふかん)
傅咸は、239年から294年までの間に生きた人物で、字は長虞といいました。彼は傅玄の子で、北地郡泥陽の出身でした。彼の経歴は多岐にわたり、尚書右丞、司徒左長史、車騎司馬、尚書左丞、御史中丞などの要職を歴任しました。しかし、司馬亮を諫めたり、夏侯駿を弾劾したことから一時免官されました。
その後、議郎や司隷校尉などの職を務め、朝政の弛緩や権勢家の乱れた振る舞いを正そうと努力しました。彼の奏上により、河南尹や澹などの官職が免職され、その結果、京師は一時的に秩序が取り戻されました。
傅玄(ふげん)
傅玄(217年 – 278年)は、中国の西晋時代の学者、文学者、政治家であり、字は休奕です。彼は涼州北地郡霊州県(現在の寧夏回族自治区呉忠市利通区)の出身で、祖父は傅燮、父は傅幹、そして子は傅咸でした。
彼の生涯は多岐にわたります。若いころは家計が困窮していましたが、その才能と学識で文章と音楽に秀でていました。州の秀才として郎中となり、著作の官として『魏書』の編纂を担当しました。その後、司馬昭の参軍、温県令、弘農太守、典農校尉などの要職を歴任しました。司馬炎(後の武帝)が晋王となると、傅玄はさまざまな昇進を果たし、朝廷の綱紀粛正のために多くの上奏を行いました。しかし、彼の剛直な性格と都合の悪い事柄を容赦なく指摘する姿勢は、時に対立を生むこともありました。
文学者としての傅玄は、著書『傅子』や楽府詩など多くの作品を残しました。彼は特に音楽に通じており、楽府の詩の中で女性の感情を詠む作品や宮廷の雅楽の歌詞を手掛ける点で独自の特色を持っていました。西晋の宮廷では、彼の楽歌の中に古曲を拾い上げ、新たな歌詞を作成するなど、宮廷音楽に新しい風をもたらしました。
傅玄の業績は多岐にわたり、彼の生涯と業績は西晋時代の歴史や文学において非常に重要な位置を占めています。
物理論(ぶつりろん)
三国時代の呉の楊泉は、宣夜説を受け継ぎ、『物理論』という著作の中で「天地を成すものは気である」という考え方を提唱しました。これは気を宇宙の根本原理とする気一元論を主張するものでした。
不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)
不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)は、江戸時代初期の禅僧、沢庵宗彭(たくあんそうほう)によって執筆された書物です。寛永年間、特に寛永15年(1638年)頃に成立したと考えられています。この書は禅の立場から、剣術や兵法に関わる心の持ち方、特に勝負の際の心の在り方について論じたもので、柳生宗矩のために書かれました。
主な内容としては、心が特定の物事に囚われると、体や行動が不自由となり、迷うと心身が停止するといった状態を良しとせず、達人の域に達した武人の精神状態や心法を「無意識行動」として捉える考えが述べられています。この「無意識行動」は心が常に流動的であり、「迷わず、捉われず、止まらず」といった状態を意味します。沢庵はこの不動智を「答えより迷わず=結果より行動」という禅の問答で説明しており、実質的には心の持ち方を中心にした兵法書として位置づけられています。
さらに、この書は徳川将軍家の兵法指南役である柳生宗矩に与えられ、後の武道に大きな影響を与える作品として認識されています。その他に、沢庵が執筆した同種の著作として『太阿記』も存在します。
また、日本国外では、オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』で一部紹介されており、日本の古来の武道や禅の思想との関連性が研究対象として注目されています。
文章軌範(ぶんしょうきはん)
『文章軌範』(ぶんしょうきはん)は、中国南宋末の謝枋得(しゃぼうとく)によって編纂された7巻からなる散文の選集です。この選集は、唐宋時代の「古文」を中心として、模範とすべき名作文章69編を収録しています。古文とは、六朝時代の装飾的な駢文に対抗して唐の柳宗元や韓愈たちが提唱した、簡潔かつ雄健な調子の文体を指します。
選ばれた作品には、韓愈、柳宗元、欧陽修、蘇軾(そしょく)など、唐宋の古文作家のものが中心となっており、特に韓愈の作品が32編と最も多いです。諸葛亮の『前出師表』や陶潜の『帰去来辞』なども収録されています。
この選集は、科挙という高級官吏の登用試験の受験参考書として作られました。そのため、現代でいう受験参考書や模範文例集のような位置づけとなっています。明代の儒者、鄒守益(王陽明の門人)による続篇『続文章軌範』も存在します。
日本では、室町時代末期に紹介され、江戸時代には特に愛読され、和刻本も多数出版されました。江戸時代には昌平坂学問所などから和刻本が多く出され、『古文真宝』をしのいで、漢文の教科書として広く用いられました。
文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)
『文心雕龍』(ぶんしんちょうりょう)は、中国の六朝時代、具体的には南朝斉の末期から梁の初期にかけて、文人劉勰(りゅうきょう)によって著された文学理論書です。この書は、中国で初めての体系的かつ総合的な文学理論書として高く評価されています。
全10巻、50篇から構成されており、その中で劉勰は文学の本質や原理、各ジャンルの発展や変遷、さらには創作論、修辞論、作家論、文学環境に関する問題など、幅広いテーマについて論じています。タイトルの「文心」とは文を作るための心意気や注意、そして「雕龍」とは美を雕刻する、つまり文を磨き上げる技巧や工夫を意味します。劉勰はこの書の中で、文学の技巧や装飾だけを追求するのではなく、真の美や文学の本質を尊重する姿勢を示しています。
六朝時代は中国文学史上、文学が独立した形で発展を遂げた時期とされ、『文心雕龍』はその代表的な記念碑的な存在です。しかし、この書は単なる文学理論だけでなく、六朝時代の文化や時代背景も反映しており、歴史や文化を学ぶ上でも非常に価値のある書物となっています。
また、同時代の鍾嶸の『詩品』や昭明太子の『文選』序とともに、中国文学評論史上の最も重要な作品の一つとして位置づけられています。
文心雕竜(ぶんしんちょうりょう)
『文心雕龍』(ぶんしんちょうりょう)は、中国の六朝時代、特に南朝斉の末から梁の初期に劉勰(りゅうきょう)によって著された、中国で最初の体系的かつ総合的な文学理論書です。この著作は全10巻、50篇から成り立っています。
内容としては、「原道」から「弁騒」の5篇では文学の基本原理を論じ、「明詩」から「書記」の20篇で文体論を展開し、「神思」から「程器」の24篇では修辞の原理や方法について深く探求しています。最後の「序志」では、本書を書くに至った劉勰の動機や背景が語られています。
「文心」とは文を作成する際の心の持ちようや注意点、一方「雕龍」は文の磨き方、すなわち文を美しく飾り立てる技術や工夫を意味します。劉勰は、ただの技巧や飾りだけを追求するのではなく、真の美や文学の精神を重んじるべきだと主張しています。
六朝時代は、文学が独立して発展を遂げた記念碑的な時代とされ、『文心雕龍』はその時代の文学や文化を体系的に捉えた重要な書物として位置づけられています。この時代の他の名著として、鍾嶸(しょうこう)の『詩品』や昭明太子の『文選』序などがあり、これらとともに『文心雕龍』は中国文学評論史上の極めて重要な作品とされています。
文中子(ぶんちゅうし)
『文中子』(ぶんちゅうし)は、中国の隋代の儒者、王通(おうとう)の作と伝えられる書物ですが、実際の著者には疑問が持たれています。この著作は『中説』とも称され、全10巻から成り立っています。形式は『論語』に似ており、儒教、仏教、道教の三教それぞれの価値を認めている特徴があります。
また、「文中子」は王通の諡(おくりな)としても知られ、同時に彼とその門人との対話を集めた「中説」の異称ともされています。
文徴明(ぶんちょうめい)
文徴明(ぶんちょうめい、1470年11月28日 – 1559年3月28日)は、中国明代中期の著名な文人・書画家です。彼は蘇州府長洲県の出身で、初名は璧、徴明は字(あざな)。後に名前のように公然と使われるようになったため、徴仲と改名しました。また、衡山や衡山居士と号することもあり、多くの場合文衡山としても知られています。
彼は南宋末期の忠臣、文天祥の子孫であり、名門の背景を持ちます。彼の父、文林は進士として知府に至りました。幼少時代、文徴明は体が弱く、言葉も遅れていたが、文林は息子の晩成を信じて教育を続けました。文徴明は、父の友人を師とし、古文は呉寛に、画は沈周に、書を李応禎に学びました。彼は科挙試験に26歳で挑戦しましたが、25年間成功せず、結局、及第することはありませんでした。
彼の青年期には、同郷の唐寅や祝允明との交友が知られ、55歳の時には、翰林院待詔に推薦されましたが、57歳で帰郷しました。帰郷後は、蘇州で文芸に没頭し、多くの文人と交流を持ちました。
彼の画は沈周の影響を受けつつも、独自の南宗画様式を確立し、明代呉派の中心人物となりました。特に、淡彩・淡墨による細やかで美しい画風が特徴です。彼と唐寅、祝允明、徐禎卿の4人は「呉中四才子」として称されました。
彼の家系には多くの文芸に秀でた者がおり、子の文彭や文嘉も書画に優れていました。彼の著作として『莆田集』があり、詩文の代表作として「西苑詩」が挙げられます。
文天祥(ぶんてんしょう)
文天祥(ぶんてんしょう、1236年6月6日 – 1283年1月9日)は、中国南宋末期の軍人・政治家。もとの名は雲孫、字は宋瑞、号は文山。吉州廬陵県富川の出身で、父は文儀、母は曾氏、妻は欧陽氏、子には文道生や文仏生がいる。
20歳の時に科挙に状元(首席)で合格し、王応麟から高い評価を受けました。当時の南宋は、強大なモンゴル軍の侵攻に直面していました。モンゴル軍が四川に侵攻した際、遷都説に反対するものの、官を免じられました。しかし、モンゴルの侵攻が激しくなると、再び復職。1276年には右丞相兼枢密使として元との和約交渉にあたりましたが、交渉の場で元の伯顔と対立し、捕らえられました。
捕らえられている間、南宋の首都臨安が陥落。文天祥は元の軍中から脱出して抵抗を続けましたが、1278年に再び捕らえられ、北京へと連行されました。獄中では、元への仕官を何度も勧誘されましたが、これを断り続けました。この期間中に、『正気の歌』という詩を詠みました。最終的に元のクビライカーンにより、1283年1月に処刑されましたが、その死の直前、南方を向いて拝んで刑を受けました。クビライは彼を「真の男子」と評価しました。
後世、文天祥は忠臣として称えられ、特に『正気の歌』は多くの人々に読み継がれました。日本でも江戸時代以降、多くの人々に愛され、藤田東湖や吉田松陰らがそれぞれ自作の『正気の歌』を詠みました。彼は南宋初期の岳飛と共に、愛国の英雄として記憶されています。
平家物語(へいけものがたり)
『平家物語』は、鎌倉時代に成立した日本の軍記物語で、平家の栄華と没落、そして武士階級の台頭を中心に描かれています。この物語は、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しで知られるとともに、平安貴族の没落と武士たちの台頭という人間模様を描出しています。
成立については、詳しい時期や作者は不明であり、多くの諸説が存在します。『徒然草』によれば、作者として信濃前司行長の名が挙げられていますが、これは確定的ではありません。物語の初期の名前は『治承物語』とも呼ばれており、その成立経緯は非常に複雑で、多くの人々の関与が考えられています。物語は元々三巻や六巻の段階があったとされ、時代とともに増補・改訂され、多くの異本が生まれました。現在、広く流布しているのは12巻の形式で、これに「灌頂巻」という巻が添えられることが多いです。
物語の内容は、平家一門の興亡を中心に、仏教的な無常観を主題として叙事詩的に描かれています。また、この物語は読むだけでなく、琵琶法師によって語られる形で広まり、能や狂言、浄瑠璃などの後代の文学にも大きな影響を与えました。
また、キリシタン版として、イエズス会宣教師の学習のために室町時代末の口語を使用してローマ字で記された版も存在し、これは文祿元年(1592年)に成立したとされます。
平妖伝(へいようでん)
『平妖伝』(へいようでん)は、中国明代の神怪小説で、馮夢龍の作とされる。本作は40回からなる長編の白話小説で、最も早い時期である宋代から、少なくとも元代にかけては講釈師の題材として人気がありました。
物語の舞台は北宋の慶暦年間、貝州(現在の河北省)で、王則に率いられた弥勒教徒の反乱が起きた時期です。この反乱は『宋史』にも記録されており、実際の史実に基づいています。しかし、『平妖伝』の物語自体はフィクションであり、実話をもとにしたものではありません。
明代の羅貫中が20回から成る『三遂平妖伝』を編纂したと伝えられていますが、真偽の程は不明です。この20回本の物語は筋立てや結末が不完全であり、多くの問題点や不明瞭な部分が指摘されています。馮夢龍はその後、この作品を手がけ、物語の筋を整えたり妖術的要素を追加するなどして、四十回本『三遂北宋平妖伝』として再編しました。現在の通行本として知られるのはこの版です。
日本でも『平妖伝』は非常に人気があり、江戸時代の好事家たちに愛好されました。特に滝沢馬琴はこの作品を深く愛し、国字解を記しています。
簡単に言うと、『平妖伝』は北宋時代の貝州での王則の反乱を元にした神怪小説で、馮夢龍が20回本を基に40回の作品に再編したものです。日本でも非常に人気があり、滝沢馬琴などが愛読していました。
碧巌録(へきがんろく)
『碧巌録』(へきがんろく)は、中国宋代の禅文学の一つであり、臨済宗の語録として知られています。この書は、雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が『伝燈録』から100則の公案を選び、それぞれに偈頌を加えたものであり、さらに、臨済宗11世の圜悟克勤(えんごこくごん)が前文、垂示(簡単な説示)、評唱(禅的な批判鑑賞)、および著語(根源的な立場からの批評の語)をそれぞれの公案に付加したものです。完成されたのは1125年で、宗教書としてだけでなく、禅文学としての価値も高く評価されています。
『碧巌録』は、宗門の専門道場において修行者が自らの悟りを深めるための公案集として用いられ、伝統的に「宗門第一の書」として重んじられてきました。その影響は大きく、本書を模範として『従容録』や『無門関』のような公案集が後に作成されました。特に元代からは臨済宗での使用が増え、広く読まれるようになりました。
駢字類編(べんじるいへん)
《事類賦》は、清時代に《広事類賦》、《広広事類賦》、《続広事類賦》として増補され、継承されました。これらの書籍は《事類統編》として統合され、さらに《増補事類統編》も作成され、歴代を通じて重視されました。
明代以降、字書や韻書の形式を借りて多くの類書が編纂されましたが、これらを総括したものとして、清朝の勅撰である《駢字類編》と《佩文韻府(はいぶんいんぷ)》が存在します。
報恩経(ほうおんぎょう)
『報恩経』は『大方便仏報恩経』とも称される経典で、全七巻からなります。訳者は明らかではありません。この経は、親を捨てて出家する行為が忘恩であるとの批判に対し、全ての衆生を捨てずに大きな慈心を持つことが真の報恩であると主張しています。
宝鑑(ほうかん)
『宝鑑』は、
- 貴重な鏡、つまり宝物としての鏡を指します。
- 手本や模範を意味し、また実用的な書物の中で、手本として参照される内容を記載したものを指すこともあります。 この言葉は、福沢諭吉の『西洋事情』にも使われ、永遠の手本としての価値を持つものと評されています。
法言(ほうげん)
『法言』は、前漢の学者・揚雄による著書で、13巻から成り立っています。この書は『論語』の体裁を模範にしており、儒家の思想を基盤としています。『老子』の内容にも言及しているものの、その文脈で儒家を否定する立場には立っていません。「問道巻」にその旨が明記されています。
揚雄は、聖人を尊び、王道を説く内容を記しており、道家の言葉を用いながら儒教を解説しています。この中で、孟子と荀子の思想の調和を図り、性善と性悪が混在する説を主張しています。この作品には『揚子法言』という別名も存在します。
成立時期には諸説があり、一つの説としては司馬光による平帝の時代というものがある一方で、汪栄宝や田中麻紗巳は揚雄の晩年、新の天鳳改元(14年)以降の作品であると主張しています。
方広大荘厳経(ほうこうだいしょうごんきょう)
『方広大荘厳経』は大乗仏教の経典で、釈迦の前半生、すなわち降生から初転法輪に至る出来事を詳細に記述しています。この経典は『大正新脩大蔵経』の巻3の本縁部に収録されています。内容としては、釈迦が様々な奇跡を起こすエピソードが中心となっており、その奇跡のエピソードはガンダーラやアジャンター石窟群、敦煌などの仏教美術の題材としても使用されています。ジャワ島のボロブドゥール遺跡のレリーフもこの経典に基づいて制作されました。
また、『普曜経』という、『方広大荘厳経』よりも早い時期に漢訳された経典がありますが、両者は基本的な内容は同じであるものの、多くの違いが存在します。特に『方広大荘厳経』には諸天が釈迦に出家を促すエピソードや転法輪の一部が含まれているのに対して、『普曜経』にはその部分が欠けている点が注目されます。
サンスクリットでの原文『ラリタ・ヴィスタラ』は、「大規模な遊び」という意味を持ち、これは釈迦の多くの奇跡を指しています。この経典は他の言語にも翻訳されており、特に西洋諸言語への翻訳も存在します。
鮑照(ほうしょう)
鮑照(ほうしょう、414年 – 466年)は、南朝宋の詩人として著名で、字は明遠といいます。彼は江蘇省の東海郡出身で、後に前軍参軍という官職を務めたため、鮑参軍とも呼ばれました。貧しい家柄、いわゆる寒門から出て、若き日に臨川王劉義慶の認識を受け、多くの官職を歴任しましたが、劉子頊が反乱を起こした際の混乱で命を落としました。
彼の詩風は、楽府詩を得意とし、その中で人生の不遇や困難を詠むことが多かった。彼の詩は、典故を離れた新奇な語を用いることで風景や感慨を力強く表現する特徴がありました。これは、当時の一部からは通俗的であり典雅さに欠けると批判されることもあったが、後の唐代の詩人、特に李白に大きな影響を与えました。主要な作品として『鮑参軍集』10巻があり、これは六朝詩人の作品としては珍しく、ほぼ原形のまま現代に伝えられています。また、彼の妹の鮑令暉も詩人としてその名を馳せていました。
法書要録(ほうしょようろく)
法書要録(ほうしょようろく)は、中国の唐代の張彦遠が編纂した書道に関する重要な文献集です。10巻から成り立っており、後漢の趙壱の《非草書》から唐代の808年(元和3年)に成立した盧元卿の《法書録》まで、書に関する古今の文献39篇を収録しています。
目録には42篇が記載されていますが、4篇は文章が収録されていないものもあり、一方で〈伝授筆法人名〉は目録に記載されず、巻一の本文中に文章が含まれています。この集成は、王羲之や王献之の書、南朝の書論、唐代の伝統派の書論や書跡の収集に関する内容が中心となっており、中国書道史研究上、非常に価値のある資料とされています。
抱朴子(ほうぼくし)
『抱朴子』(ほうぼくし)は、中国の晋代の道教の士・葛洪(かっこう)が著した著書であり、葛洪の号を書名としています。葛洪は役人の家系に生まれ、先代の道士である葛玄や鄭隠から学びました。また、「道教は本、儒教は末」という考えを持ち、二つの教えを併用する思想を持っていました。
『抱朴子』は、内篇と外篇から成り立っており、現行本は内篇20篇、外篇50篇、そして自叙2篇からなりますが、過去にはさらに多くの篇があったとされています。内篇では、仙人の存在、仙薬の製造方法、修道法や道教の教理などが詳述されており、道教の教義を組織化した内容となっています。一方、外篇は儒教の観点から世の中の事柄や人間関係について評論されています。
この著書は、仙人になるための方法や、道教と儒教の考え方の融合、さらには葛洪の人生や彼の思考についての洞察を知る上で非常に価値のある文献として受け継がれています。
牟融(ぼうゆう)
牟融(ぼうゆう)は中国古代の思想家として知られています。彼は「牟子博」とも呼ばれることがありますが、実際の名前や生没年は定かではありません。彼の著作である《理惑論》の序文から、後漢末の時代に広西省の蒼悟という地で生まれたこと、また経伝諸子、兵法、神仙の書など幅広い文献を読んだことが知られています。
方輿勝覧(ほうよしょうらん)
『方輿勝覧』(ほうよしょうらん)は、南宋時代の祝穆(しゅくぼく)によって13世紀に編纂された70巻の地理書です。この書は州ごとに名所、旧跡、有名人などを記載しています。
祝穆は朱熹の学び手であり、祝確の孫に当たる人物で、彼の他の著書には『古今事文類聚』があります。『方輿勝覧』の内容は、南宋の17の路(行政区分)を基にしており、各路は州に分けられ、行在所の臨安府から始まっています。しかし、この書は南宋の版図のみに焦点を当てており、北方の地域については触れられていません。
各州の記述には、「建置沿革」から始め、その後、郡名、風俗、名勝、土産、山川、建築物、古跡、有名人、詠まれた詩などのカテゴリーに分けて、各地域の特色や名物を詳細に説明しています。また、引用される文章や詩句も多く見られます。
祝穆の原刻本は『新編四六必用方輿勝覧』として1239年に刊行され、日本の宮内庁書陵部が所蔵しています。祝穆の死後、1267年に彼の子、祝洙により増補版が出版され、『新編方輿勝覧』として70巻にまとめられました。この増補版では、前集・後集・続集の区別はなくなっています。
通常の地理書で取り上げられる内容とは異なり、『方輿勝覧』はその地域ごとの特色や名物に焦点を当てた類書としての側面も持っています。
北史(ほくし)
出典:wiki(二十四史)
『北史』(ほくし)は、中国の正史であり、二十四史の一つです。唐の李延寿が撰述し、659年に成立しました。
この書は、李大師が始めたものを、その子の李延寿が引き継いで完成させました。南北朝時代の北朝、すなわち北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史がまとめられています。
全100巻からなり、本紀12巻と列伝88巻で構成されています。詔令や上奏文の多くは省略され、叙事に焦点を当てています。
その結果、総量は『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』の合計よりも少なくなっていますが、それらの断代史には含まれていない情報も含まれており、特に『魏書』では取り扱われなかった西魏の人物についての情報が豊富です。
その公正で詳密な記述により、史料としての価値が非常に高いとされています。
墨子(ぼくし)
墨子(ぼくし)は、中国戦国時代に活動した思想家で、墨家の開祖です。彼の本名は墨 翟(ぼくてき)で、紀元前470年頃から紀元前390年頃にかけて生きたとされています。
墨子は元々儒学を学んでいましたが、儒学の仁の思想を差別的な愛であると感じ、その考えに満足しませんでした。そこで彼は「兼愛」つまり無差別的な愛を説く独自の思想を打ち立てました。その他にも「非攻」(平和主義)、節倹勤労を重視する「節用」や「節葬」、礼楽の排斥といった教えを持っていました。これらの教えは、墨子の時代の諸侯たちの軍拡志向とは相容れないため、しばしば敬遠されることもありました。
墨子の死後、墨家は禽滑釐、孟勝、田譲らによって一大勢力となりましたが、最終的には消滅しました。
「墨子」とは、また、彼とその門流の論説を集めた書物の名前でもあります。現行の本は53編から成り立っており、さまざまな主題が取り上げられています。墨子の教えや墨家学派の活動の足跡を知るうえで、この書は非常に重要です。
墨翟の素性や出身地、姓「墨」の意味などには謎が多く、古くから様々な憶測や説が存在しています。しかし、彼の思想や影響力は中国の哲学史において確かなものとして認識されています。
北斉書(ほくせいしょ)
『北斉書』(ほくせいしょ)は、中国の二十四史の一部として知られる正史です。この書は唐の時代、特に太宗の勅命により、李百薬によって636年(貞観10年)に完成されました。内容としては、南北朝時代の北斉の歴史を記述しており、本紀8巻と列伝42巻、合計50巻から成り立っています。
李百薬は、彼の父である李徳林が手掛けた『北斉史』を基に、王邵の『北斉志』からの資料を追加して本書を完成させました。なお、18巻分の文章は李百薬自身の手によるものが現存しており、残りの部分は散逸したため、後世の人々が『北史』などの資料をもとに補完しています。
当初は『斉書』という名前でしたが、宋代以降、南斉の歴史を記した蕭子顕の『南斉書』と区別するため、『北斉書』という名称で呼ばれるようになりました。
しかし、『史通』の著者である劉知幾は、『北斉書』に対して『北斉志』や『関東風俗伝』より劣ると評価しており、その意見は非常に厳しいものでした。
北夢瑣言(ほくぼうさげん)
『北夢瑣言』(ほくぼうさげん)は、中国の宋時代の孫光憲によって著された書籍です。この書は、唐末や五代期間中の知られざる逸話を集めたもので、全20巻から構成されています。
法華経(ほけきょう)
『法華経』は、大乗仏教の代表的な経典であり、正称は『妙法蓮華経』、サンスクリットでは「Saddharma-puṇḍarīka-sūtra」と呼ばれます。この名前は「白蓮華のように最も優れた正しい教え」という意味があります。経典は大乗仏教の初期に成立し、その中で誰もが平等に成仏できるという思想が説かれています。
漢訳としては、鳩摩羅什による「妙法蓮華経」が特に有名です。ほかに竺法護訳の『正法華経』や、闍那崛多・達磨笈多共訳の『添品妙法蓮華経』も存在します。さらに、この経典は多くの言語に翻訳され、広い地域で読誦されています。
日本では、聖徳太子の時代から伝わり、天台宗や日蓮宗の基盤となる経典として非常に重要視されています。特に日蓮は、この経の題目を唱えることで一宗を開創しました。
菩提心論(ぼだいしんろん)
『菩提心論』は、インドの龍樹の著として伝えられる1巻の書物です。正式には『金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論』と称され、『発菩提心論』とも呼ばれます。
この著作は、発菩提心を密教的に基礎付ける内容で、心を統一すること(禅定)によって即身成仏を説いています。真言宗においては、行者にとって必読の論書とされています。なお、この書物が不空の訳であるとされていますが、その点には疑問も挙げられています。
法句経(ほっくぎょう)
『法句経』(ほっくぎょう)は、原始仏教の経典で、パーリ語では『ダンマパダ』Dhammapadaと称されています。この名前は「真理・法の言葉」を意味し、平明な文章で深い宗教的境地を表現した韻文のみからなる経典です。パーリ語テキストは423の詩句で構成され、26章に分けられています。この経典は、伝統的に仏教徒に愛唱され、仏教の教義や生き様の指南として広く用いられてきました。
『法句経』はスッタニパータと並び、現存する経典の中でも非常に古いとされ、釈迦の時代よりも後に編纂されたものと考えられています。異本や関連する経典として、ガンダーラ語のテキストや『ウダーナバルガ』、そして漢訳の『出曜経』(しゅつようぎょう)などが存在します。
この経典は、仏教の教義を短い詩節の形で伝え、その普遍性と深さから、多くの仏教徒の心の指針として受け入れられてきました。
法華義疏(ほっけぎしょ)
『法華義疏』(ほっけぎしょ)は、伝えられるところによれば、聖徳太子が著した日本最古の肉筆遺品です。この義疏は『三経義疏』の一つで、他の二つは『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』です。それぞれは『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の注釈書として書かれました。
『日本書紀』によれば、聖徳太子が推古天皇14年(606年)に『勝鬘経』と『法華経』を講じたとされ、これらの義疏は彼の著作として長く信じられてきました。特に『法華義疏』は推古天皇23年(615年)に作成されたものとされています。聖徳太子真筆の『法華義疏』の写本は、天平勝宝4年(753年)までに行信によって発見され、法隆寺にもたらされました。この写本は明治11年(1878年)に皇室に献上され、現在は皇室の御物となっています。この写本は草稿本であるとされ、いくつかの部分で修正や書き込みが見られます。
なお、隋代の吉蔵著の『法華義疏』とは別の書物であり、聖徳太子の『法華義疏』は、梁の法雲の『法華義記』を基にしていますが、独自の解釈が随所に見られ、日本仏教の発展に影響を与えたと言われています。
本事詩(ほんじし)
『本事詩』(ほんじし)は、中国の詩に関する逸話集で、晩唐の孟けいの著作です。1巻から成り立っており、光啓2年(886年)に成立しました。この書は詩人の作詩の動機や背景などのエピソードを収録しており、「詩話」というジャンルの先駆けとなりました。内容は主に唐代の詩人に関する記事で構成されており、唐代詩人の伝記資料として非常に貴重なものとなっています。
本朝文粋(ほんちょうもんずい)
『本朝文粋』(ほんちょうもんずい)は平安時代中期の漢詩文集で、14巻からなります。編纂者は藤原明衡で、嵯峨天皇から後一条天皇までの約200年間、17代の間に書かれた優れた詩文427編を収録しています。この文集は宋の姚鉉の『唐文粋』に触発されて編纂され、日本の社会情勢や文化を反映する内容になっています。分類方法としては、中国の『文選』を参考にしており、雑詩や詩序のほか、和歌序や願文、表白などの仏事に関する文章も独自に収録されています。
主な作者としては、菅原家や大江家の学者や詩人が中心となっており、特に菅原道真や大江匡衡などの名が挙げられます。兼明親王の「菟裘賦」や慶滋保胤の「池亭記」など、多くの知られた作品を含んでいます。多くの文章は四六駢儷文という華麗な文体で書かれており、これらの文章は後世の文章の手本や故実典例として大変な影響を与えました。特に、『和漢朗詠集』や『新撰朗詠集』などの後代文学にもその影響が見られます。
梵網経(ぼんもうきょう)
『梵網経』は、仏教の大乗経典であり、全2巻から成り立っています。正式な名称は『梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十』といい、しばしば「菩薩戒経」とも称されます。上巻では、菩薩の向上心について説かれており、下巻では十重禁戒と四十八軽戒を取り上げ、大乗戒や菩薩戒を詳述しています。この経典は、出家者と在家者の間での区別なく、すべての衆生が仏性の自覚によって戒を受け入れることができると主張しています。
訳者として鳩摩羅什の名が伝えられていますが、実際には5世紀頃の中国で成立したと考えられています。中国や日本ではこの経典を非常に重視し、特に日本では最澄がこの経典を基にして比叡山に大乗戒壇を設立しました。従って、『梵網経』は、大乗仏教における戒の考え方や実践における基盤としての役割を果たしています。